日本では軍を率いて戦争にまで発展する親子ゲンカというのが多く発生しました。

古いものを上げれば源義朝と源為義、また武田信玄による信虎の主君押し込めなどなど。

 

しかしその中でも有名なのがこの斎藤道三と斎藤義龍でしょう。

このケースが特殊なのは既に斎藤道三が義龍に対して家督を譲っていたのに、義龍は半分隠居生活をしているような道三

に対して戦いを仕掛けたということです。

 

この戦いを「長良川の戦い」と呼ぶのですが、なぜ義龍と道三は戦うことになったのでしょうか?

そして、この戦いに織田信長はどのように関わっていたのでしょうか?

 

今回は斎藤道三と斎藤義龍の間で繰り広げられた親子喧嘩「長良川の戦い」について詳しく見ていきましょう。

 

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義龍「俺の父親は本当に道三?」きっかけは昼ドラのような展開から

事の発端は義龍が道三に対してある疑いを抱いたことでした。

それは、「自分は本当に道三の子供なのか?」ということ。

 

斎藤義龍の肖像画
斎藤義龍の肖像画

 

というのも、義龍の母、深芳野(みよしの)は道三の主君であった土岐頼芸から譲られた女性。

土岐頼芸の妾(めかけ)だった深芳野は、後に道三の側室として迎えられた訳です。

 

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実は深芳野が道三の側室になった時には、既に義龍を身ごもっていたのではないかという疑惑がありました。

つまり、義龍が「自分の本当の父親は道三ではなくて土岐頼芸なのではないか?」という疑いを持ち始めたのがきっかけでした。

 

現在、義龍の父親は間違いなく道三だろうと考えられていますが、DNA鑑定なんてないこの時代、義龍のこの疑念を晴らす方法はありませんでした。

 

また道三が義龍よりも弟たちのことを可愛がっていたことも義龍のこの疑念を強める要因となりました。

道三は孫四郎、喜平次という義龍の弟ばかりに目をかけていたので、いずれ自分が当主の座を追われ、弟たちが取って代わるのではないかという疑念も強くなったようです。

 

道三が義龍をどうしようと思っていたかは定かではありませんが、一言でいえば親子のコミュニケーション不足なのですが、嫉妬と猜疑心で溢れかえっていた義龍は、思いもよらない強硬手段に打って出ます。

 

義龍はまず、道三が可愛がっていた二人の弟、孫四郎と喜平次を自分のもとに呼び寄せ、酔った隙を見計らって殺害。

 

稲葉山城の写真
義龍の居城・稲葉山城

 

その事実を道三に伝えます。

 

「次に命を狙われるのは自分」

そう考えた道三は長良川の向こうにある大桑城まで逃走。

 

これによって親子の対立は決定的なものとなります。

 

長良川の戦いの開戦〜終焉まで

開戦を前に斎藤道三は鶴山へと布陣します。

また道三の娘婿であった織田信長は、道三を死なせてはいけないと尾張から援軍を出していました。

 

長良川の戦いが行われた場所は稲葉山城のすぐそば。

稲葉山城の対岸の城に逃れていた道三が兵を出し、長良川を挟んで対峙しています。

 

斎藤道三自身は戦上手な武将ではあったものの、この時道三のもとに駆けつけたのは明智氏など僅かな味方の総勢2700。

それに対し義龍の側は既に家督を継いでることもあり、17500という大軍でした。

 

義龍は「自分は美濃の守護であった頼芸の子である」というプロパガンダ(宣伝)をしていたので、土岐氏の旧臣らも集まり、兵力では圧倒的に義龍が有利でした。

 

しかし、道三の戦の経験値はなかなかのもの。

最初に川を渡って攻撃を仕掛けたのは義龍軍でしたが、道三の軍勢はこれを敗走させ、先陣の大将であった竹腰道鎮を討ち死にさせます。

 

このように序盤は道三軍が優勢に戦いを進めていきます。

 

しかしここで斎藤義龍が全軍突撃の指示を出します。

全軍突撃されてれば「17500」vs「2700」というマンパワーの戦いになってしまうため途端に劣勢に陥る道三。

 

最終的に道三は義龍軍の小牧源太という武将に打ち取られ、鼻を削がれた状態で首をさらされることになります。

享年は63。

人生50年の時代ですから放っておけばそのうち死んだのではないか、そこまでして殺す必要があったのかという気がしないでもないです。

 

信長は義龍の追撃を振り切る

道三の首実検が終わった後、士気盛んな義龍軍の勢いは近くまでやってきていた織田信長の軍勢に向けられます。

義理の父である道三の救援に間に合わなかった信長は一刻も早く美濃から引き揚げようとしますが、前述のように義龍が軍勢を率いて迫ってきています。

 

信長軍も数名が討ち死にし、森蘭丸の父で名将として知られる森可成でさえもひざ下を切られるという大怪我をしてしまいます。

 

通常、このような撤退戦を行う場合は殿(しんがり)と言って、最後列に少数の軍勢を残して敵を足止めさせ、時間稼ぎをしている間に本隊を逃すという戦法を使います。

殿(しんがり)というのは捨石のようなもので、非常に危険なだけでなく、失敗すれば自分の部隊が全滅してしまう可能性もある訳です。

 

そんな中で「俺が殿を行う」といったのは信長本人。

家臣からすると、「いやいや大将を逃がすための殿なんだから、あんたが最後列にいちゃダメじゃん・・。」という話ですが、信長は自分を乗せた舟一艘を残し全軍を撤退させてしまいます。

 

殿といえば金ケ崎の羽柴秀吉や三方ヶ原の本多忠勝などが有名ですが、当主が自ら殿を務めるのは異例です。

 

信長は舟の前で敵が来るのをじっと待ち構え、義龍の軍勢が来るのを待ちます。

それからしばらくして突出した義龍軍の騎馬が来たところで信長はすかさず鉄砲隊を一斉発射。

 

当時最新兵器であったこの鉄砲の威力に義龍軍はビビってしまい、信長はその隙に舟に乗って逃げ出します。

こうしてなんとか信長は美濃国から逃げ出すことに成功するのです。

 

道三亡き後の信長は大変……

しかし信長にとっての試練はまだまだこれから。

道三が死んでからは尾張の他の勢力が不穏な動きを見せるようになります。

 

というのもこれまでは信長のバックに斎藤道三という大大名がいました。

そのため、あまり信長に逆らうと信長の舅である道三が援軍に来る可能性もあった訳です。

 

つまり、道三の存在は信長にとっても大きなもので、道三の存在感で周りを抑え込んでいたところもあります。

 

しかしその道三がいなくなり、斎藤義龍が手中に収めたことから周りの周辺勢力たちも、「これからは自由にやってやるぜヒャッハー!」と好き勝手に信長の城下を焼いたり信長の弟の信行を堂々と担ぎ出したりと好き勝手し始めることになるのです。

 

言い方を変えれば道三の死が織田信長の尾張平定を遅らせることになった……という言い方も出来るかもしれません。

 

道三を倒した義龍の心にぽっかり空いた穴

一方、長い間対立していた斎藤道三を葬り去ることに成功した斎藤義龍。

復讐を遂げてルンルンかと思いきや、どうもそういう気分にはなれなかったようです。

 

当主の座から追い落とされる脅威がなくなったのだから、自分のやりたいようにやれば良いような気もしますが、戦いで討ち取った道三の首を確認すると、義龍は頭を丸めて出家してしまいます。

 

そして、出家したあとは范可(はんか=唐の故事に出てくる名前でやむを得ない事情により父親を殺してしまった人物の名前)と名乗ります。

 

こうした行動を見ても、義龍はただ道三に認めて欲しかっただけなのではないかと思います。

 

「もっと自分に目をかけて欲しい」

「それなのに父は弟たちのことばかり可愛がっている」

 

長良川の戦いは孤独な義龍の気持が引き起こした壮絶な親子喧嘩だったのかもしれません。

 

その後、義龍は内乱で荒れた美濃国を立て直そうと内政に勤しみますが、道三の死から5年後に急死。

35歳という若さで亡くなります。

 

父を殺してしまったことによるストレスと日頃の激務が積み重なってしまったのかもしれません。

そう考えると、悲しいなぁ・・。

 

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