織田信長の妻として有名なのは斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)です。

しかし信長と帰蝶の間には子供が生まれなかったとされ、実は「帰蝶」の存在は歴史資料にもほとんど登場しません。

 

大河ドラマなどでは仲の良い2人の姿が描かれることが多いですが、20人以上の子供がいた信長なのに、帰蝶との間にだけ子供がいなかったとなると、実際の夫婦仲はそれほど良くなかったのかもしれません。

 

そんな帰蝶とは対照的に、信長が最も愛したとされるのが生駒吉乃という女性。

信長の側室で、信忠、信雄を生んでいます。

 

今回は信長が最も愛した女性といわれる生駒吉乃についてみていきましょう。

 

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吉乃を知る6つのポイント
  • 織田信長に最も愛された女性といわれる
  • 信長を一目惚れさせた未亡人
  • 信忠、信推、徳姫を生む
  • 吉乃との息子・信忠を正室・帰蝶との養子にする
  • 病に伏せる吉乃のために御殿が建てられる
  • 信長に看取られ病で亡くなる

 

生駒吉乃は織田信長に最も愛された女性?

生駒吉乃(いこまきつの)は戦国を生きた女性の一人で、織田信長に最も愛された女性だと言われています。

彼は正室に濃姫(帰蝶)という妻を抱えていましたが、入れ込み具合はこの濃姫の比ではありません。

 

織田信長と濃姫の銅像の写真
織田信長と濃姫の銅像

 

現在では妻を差し置いて美しい愛人のもとに入れ込んだ男なんかは、世間からも親戚からも叩かれまくりますが、この時代、権力者たちの多くは側室という第二、第三の妻を有していました。

それが権力の象徴でもありましたし、何よりお世継ぎを残すという立派な使命もあったのです。

 

というわけで、大義名分を手にした信長がどんなふうにして吉乃と出会ったのか、まずはそこから説明していきたいと思います。

 

最初の夫と死に分かれた後、信長が一目惚れ

実は吉乃は織田信長の側室になる前、土田政久の孫である土田秀久に嫁いでいました。

しかし夫が戦争で戦死したため実家に帰ってきていたのです。

 

生駒家は当時、馬借(運送)と灯油の仕事を手がけていたため、屋敷内には商いに関わる食客が滞在していることも多く、諸国の情報が大量に集まる場所でした。

そんな生駒家に信長が情報収集のために出入りするようになったのは、元服前からだったと言われています。

信長はそこで美人で優しい吉乃と出会うのです。

 

彼女に一目惚れした信長は、それから足繁く生駒屋敷に訪れます。

清州城から生駒の屋敷までは約10キロ。馬を飛ばせば1時間ほどでしょうか。

 

その様子は彼の配下が記した『武功夜話』にも記述があり「足繁く清州より 郡生駒雲求屋敷へご遊行」と、その熱烈っぷりが見て取れます。

信長にも恋愛に燃える青春時代があったんですねw

 

長男の信忠を正室・濃姫との養子にする

そんな中、信長と吉乃の間に長男・信忠が生まれます。

すると信長は、正室である濃姫との養子として信忠を迎えます(濃姫と信長の間に子がなかったため)。

 

織田信忠の肖像画
織田信忠の肖像画

 

濃姫の心中を想うと複雑ですが、それほどまでに信長は吉乃を正室に近い扱いとして迎えたかったのでしょう。

信長としても斎藤家から迎えた姫(しかも斎藤道三の娘)を簡単に離縁する訳にはいかないですからね。

 

また、信長には二十四人の子供がいましたが、のちに織田家の総大将として大群を率いることができたのは信忠と信雄(吉野が生んだ二人の息子)だけでした。

妻の忘れ形見である二人だからこそ実権を与えたのか、二人にそもそも実力があったのかは定かではありません。

 

しかし『信雄が負けても信長はあまり叱らなかった』というエピソードもあることから、やっぱり少しは贔屓目が入っていたのかもしれません。

 

病に伏せる吉乃のためだけに御殿が建てられる

これまでの吉乃の立場は正式な側室ではなく非公式な妾だったため、長男の信忠、次男の信雄、そして娘の徳姫を生んでも彼女は生駒屋敷に住み続けていました。

しかし三人目の徳姫を生んだ時、吉乃は産後の肥立ちが悪く、床に伏せってしまいました(子供を三年連続で生んでしまったことが原因だともされています。)

 

清州城から小牧山城に本拠地を移した信長は、そこに吉乃のための御殿を建てて生駒屋敷から移住するよう使いを出しますが、この時彼はまだ吉乃の病状を知りません。

吉乃の兄からの手紙によって彼女の病を知った信長は、大慌てで自ら彼女を迎えに赴き、小牧山城に連れ帰るのでした。

その信長の吉乃に対する溺愛の様子は家臣達もよく知るところでありましたが、この時正式に吉乃は『信忠の生母である』と公表され、晴れて側室となることができたのです。

 

信長に看取られ、病で亡くなる

しかし病が全快することはなく、永禄1566年9月13日、吉野は永遠の眠りにつきます。

この時、信長は人目もはばからずに号泣したと言われ、その様子から、彼が生涯もっとも愛した女性として吉乃は名を知られることとなります。

 

それから数年後、まるで吉乃のことを頭から追いやるかのように小牧山城は築城からわずか数年で廃却。

信長は天下統一への道を獅子の如く駆け上がります。

 

もしかすると吉乃は信長の覇道の人生において、彼が心を休めることのできる唯一の止まり木だったのかもしれません。

 

そして、信長の命で作られた吉乃の墓には観音像が彫り込まれています。

神仏を信じない彼がどうしてそれを彫らせたのか?

 

このエピーソードだけでも、吉乃に対する信長の思いの深さが感じ取れる気がします。

 

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