土岐頼芸は美濃国を治めていた守護大名。
守護というのは幕府から任命された警察のような役割で、幕府からの命令で美濃を支配していました。
しかし、商人から成り上がった斎藤道三によって美濃から追放されてしまいます。
名門の出身でありながら、道三に蹴落とされてしまった土岐頼芸とはどんな人物だったのか?
今回は土岐頼芸についてみていきましょう。
斎藤道三に国を乗っ取られた・・・!土岐頼芸の波乱の人生とは?
土岐頼芸 |
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【出身国】美濃国 |
【生没年】1502~1582年 享年81歳 |
【主な経歴】斎藤道三に追放されて守護から流浪の日々へ |
- 守護家の家督を実兄と争う
- 斎藤道三の策略にはまって二度までも追放!
- 日本各地を流浪して最後は失明
- 実は優れた文化人だった!
土岐頼芸は1502年に美濃国(現在の岐阜県)で生まれました。
名前の読みは「よりよし」「よりあき」「よりなり」など様々。
美濃の土岐氏といえば、美濃源氏として名高い名家中の名家です。
土岐氏流としては他にも明智光秀や森可成、浅野長政ら高名な人たちがいて、戦国の世を彩っていました。
明智光秀が本能寺の変の直前に詠んだ歌があるのですが、それは「とき(時または土岐)は今 あめが下知る 五月かな」というもの。
これは「土岐氏の支流である自分が、今こそ天下へ号令する時なのだ」という意味があるとも言われています。
平安・鎌倉から長く続いた名族「土岐氏」のブランドを前面に押し出して、意気込んでいる光秀の姿が想像できますよね?
それだけ土岐氏が名族だったという証拠です。
兄弟での主権争い
話を戻しましょう。
頼芸には頼武という兄がいて、本来なら頼芸が土岐家を継ぐことはありませんでした。
ところが、父は頼芸のほうを溺愛してしまい、兄の廃嫡を考えてしまいます。
当然、頼武は納得せず、1517年に頼芸打倒の兵を挙げ合戦に及びました。
これが兄弟対決の第1ラウンドです。
この戦いでは頼芸側が敗れて決着になるかと思われました。
ところが頼芸を支持する重臣も多くいて、支援を得た頼芸は翌年再び戦いを挑みます。
これが第2ラウンド。
この戦いで頼芸は兄頼武を圧倒し、越前へ追い落としました。
2人の決着がついて美濃も平穏になるかと思いきや、第3ラウンドも勃発してしまいます
越前へ逃げ込んだ頼武は、今度は朝倉氏の支援を得て大軍を率いて侵攻してきたのです。
木っ端みじんに敗れた頼芸は大打撃を受けます。
それでも諦めない頼芸は6年後の1525年、雌伏の時を経て、乾坤一擲のクーデターを決行。
守護館を占拠し、味方を大いに募って勢力を盛り返したのです。
しばらくは両兄弟の勢力が拮抗する展開になりましたが、1530年にやっとのことで兄を追い落とし、ようやく美濃守護に収まったのでした。
しかし、この戦乱の間に家臣同士はいがみ合い、国土は荒れ果て、惨憺たる有様になりました。
肝心の政治を顧みない暗君にロクな運命が待ち受けていないのは、いつの世も同じことです。
そして頼芸は将来美濃国を奪われることになる斎藤道三の野望に全く気付いていませんでした。
通説では、斎藤道三は若い時に身を興し、美濃国へやって来て一代で国盗りを果たしたことになっていますが、現在その通説は否定されています。
油屋だった父松波庄五郎が美濃へやって来て家臣となり、土岐家中で出世し、その跡を継いだのが道三ということになっているのです。
最近の六角承禎の書状が発見されたことにより明らかになった史実です。
詳しくは斎藤道三の記事でも解説しているので参考にしてください。
斎藤道三に追放される
越前へ逃げた兄が亡くなり、その跡を継いだのが頼純でした。
「美濃守護を継ぐのは嫡流たる自分しかいない!」とばかりに朝倉氏や六角氏を味方に付けて美濃へ侵攻したのです。
美濃は再び戦乱の巷と化しましたが、一進一退の攻防が繰り広げられている間に、頼芸は六角氏との和睦に成功。
そして頼芸と頼純との間にも和睦が成りました。
それにしても土岐一族の内紛は非常に目まぐるしく、よくこんな不毛な争いを何年も続けているものですよね。
再び美濃は平穏が戻ってきたわけですが、そうこうしている間に、斎藤道三は虎視眈々と国を奪う機会をうかがっていました。
1541年、道三は土岐一族の力を削ぐため頼芸の弟・頼満を毒殺。
次いで頼芸までもが尾張へ追放されてしまいます。
国を奪われた頼芸は、今度は恥も外聞もなく越前へ逃げていた頼純と連携して道三を挟撃しました。
不利を悟った道三は、すかさず両者と和睦。
新しい守護として頼純を迎え入れ、自らの娘を輿入れさせて取り込みを図りました。
しかし、のちに邪魔になったため頼純はあっけなく殺害されてしまいます。
いっぽう頼芸のほうも美濃国内に戻っていましたが、頼みにしていた尾張の織田信秀が道三と和睦してしまったために後ろ盾を失い、1552年に再び追放の憂き目に遭ってしまいました。
その後、頼芸は近江、常陸、上総と流浪を重ね、やがて甲斐の武田氏を頼って落ち延びていったといいます。
さらに寄寓していた武田氏までもが織田によって滅ぼされてしまい、不憫に思ったかつての家臣、稲葉一鉄が美濃へ連れ帰り、そこで亡くなったといいます。
よほど苦労されたのか失明していたそうで、哀れさが涙を誘います。まさに後半生は不幸そのものだったようですね。
稲葉一鉄については下記の記事で詳しく解説してます。
頼芸の息子が道三を滅ぼした!?
頼芸は当時、「美濃一の美女」と謳われていた女性「深芳野」を愛妾としていました。
やがて斎藤道三が頼芸を支援して活躍するようになると、褒美のつもりで深芳野を道三に下賜したのです。
やがて道三と深芳野の間には男子が生まれました。
1526年の年末に道三の側室となって、翌年夏には生まれているので計算上はどうでしょうか?
当時から「土岐の御屋形様の御子なのでは?」という噂もあったようです。
やがて長じた男子は義龍と名乗り、道三と不和になった挙句に合戦で道三を攻め滅ぼしてしまいます。
もし、義龍が頼芸の実子だったとしたら・・・?
頼芸の息子が仇を討ったことになりますね。
頼芸は優れた芸術家の一面もあった
頼芸の人生は戦いの連続だったはずですが、芸術の才があったようです。
そもそも土岐一族は和歌や連歌を嗜む当主が多い血統でした。頼芸の場合も書画を愛し、自らも筆を取っていたそうです。
特に鷹の書画を得意としていたようで、土岐一族が描いた「鷹屏風図」などが現存しています。