九州の戦国大名・大友宗麟。

全盛期には九州6カ国を支配し、中国地方を統一した毛利元就とも戦を繰り広げていました。

 

しかし有能な家臣が亡くなると、その勢力は次第に衰退。

最後には島津氏に攻め込まれ、豊臣秀吉に助けを求める事になります。

 

そのため、「大友家は家臣が有能だっただけで、宗麟自身は暗愚な武将だったのではないか?」と評価されることがあります。

果たして宗麟は本当にダメな武将(戦国大名)だったのでしょうか?

 

今回は九州の戦国大名・大友宗麟に迫ってみます。

 

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大友宗麟の逸話や功績を簡単に解説

出身国 豊後府内(大分県)
生没年 1530年~1587年

(享年58歳)

主な経歴 北部九州六ヶ国を治める
熱心なキリシタン大名

 

【大友宗麟の主な経歴や逸話】

  • 日本初の西洋式総合病院「府内病院」を建設!
  • 日本に最初に伝わった大砲フランキ砲(国崩し)を輸入し使。用。
  • キリシタンになり、古来からある寺社仏閣を徹底的に破壊
  • キリシタンの理想国家「musica」の建設を夢見る。
  • 積極的に南蛮文化を取り入れ、当時のヨーロッパでは王と呼ばれ、織田信長よりも有名だった。
  • 叔父や家臣を殺してまでもその妻を奪うなど好色癖があった。
  • 立花道雪や高橋紹運、立花宗茂など、とにかく有能な家臣に恵まれている。
  • 実は蹴鞠の名手であり、茶器のコレクターでもあった。

 

大友宗麟ってこんな人!経歴を紹介!

大友宗麟は九州六ヶ国を平定した豊後の戦国大名です。

当時のヨーロッパでは王と呼ばれ、織田信長よりも有名だったと言われています。

 

16歳の時に出会った西洋人医師の影響を受け、南蛮文化に興味を持ち始めます。

府内(現在の大分市)に日本初の総合病院を建設し、西洋医術、更には西洋音楽や演劇などを広めたのも宗麟です。

 

自らも47歳の時に洗礼を受け、「ドン・フランシスコ」と名乗り、南蛮貿易を積極的に行いました。

南蛮貿易で日本初の大砲フランキ砲を輸入、その破壊力が凄まじかったので、「国崩し」と命名します。

 

宗麟は宣教師たちを積極的に保護し、海外との親交を深めていきました。

 

当時のヨーロッパの地図にはjapan、bungoと日本が二つに分けて書かれています。

宗麟は豊後の王と呼ばれるほどヨーロッパでは有名でした。

 

しかし、キリストにのめり込む宗麟と家臣との間に分裂が生じ、最終的に宗麟の元に残った家臣は僅かだったと言います。

 

九州六ヶ国を平定していた宗麟でしたが、最終的には豊後1国までに衰退。

58歳でチフス(高熱を伴う細菌感染症)により死亡したと伝えられています。

 

日本初の宗麟の偉業とは?

 大友宗麟が16歳の時、弟の晴英(はるひで)が鉄砲の試し打ちをしようとした際、玉が暴発し手に怪我をしてしまいます。

 

その手当てをしたのが当時滞在していたポルトガル人の医師で、西洋式医術は日本より遥かに進んでいたため、宗麟も興味を抱きます。

 

その後の1557年、ポルトガル人の医師ルイス・デ・アルメイダは宗麟に病院設立を持ちかけ、豊後府内に日本初の総合病院(府内病院)を建設。

身分を問わず無料で診察し、外科手術を初めて行うなど、遠方からもたくさんの患者が訪れました。

 

更に宗麟は日本初の育児院、学校を設立。

宗麟が進んで南蛮文化を取り入れたため、豊後は西洋音楽、演劇などの発祥地とも言われています。

 

1576年にフランキ砲(国崩し)を輸入し、日本初の大砲を使用したのも宗麟でした。

 

島津軍から攻められ、臼杵城に籠城していた際にフランキ砲を発射。

これにはさすがの島津も驚き、宗麟もその場をしのぐ事が出来ました。

 

大友宗麟が求めたキリスト教の理想国家「musica」とは?

宗麟は47歳の時自ら洗礼を受け、キリシタン大名となります。

洗礼名は、「ドン・フランシスコ」。

 

そして、日向(現在の宮崎県)にキリシタンの理想国家を造ろうとします。

 

その名前が「musica」。

「皆がキリストを信仰し、愛し合い、兄弟のように暮らす国!」というのが宗麟の理想でした。

 

とても戦国大名とは思えないテーマですよね?

 

こうしてキリスト教にのめり込みすぎた宗麟は、神社や仏閣などを焼き尽くしてしまいます。

 

そんな時、島津との間で「耳川の戦い」が始まります。

キリシタンを信仰していない宗麟の家臣たちは徐々に反発し、命令も下されないまま突進。

その結果、島津軍の鉄砲隊に次々と打たれ、二万という多くの兵の命が失われました。

 

日向でこの敗北の知らせを聞いた宗麟は、たくさんの命が失われたことに対し、自分のせいだと落胆します。

musicaの建設を夢見てから僅か二ヵ月後の事でした。

 

家臣の妻も俺のもの、美しい女性に弱かった

 ヨーロッパでは王と呼ばれるなど聡明なイメージの宗麟ですが、意外にも女癖は良くありませんでした。

正妻の奈多夫人もかなりの美女だったようですが、信仰の違い等で度々言い争いが起こり、側室と過ごす事が多かったようです。

 

そして、美人とあれば叔父や家臣の妻であっても容赦なく奪ってしまう残虐な一面もありました。

もちろん、こんなことは宗麟の崇拝していたキリストでも許されていません。

 

しかし、結局、宗麟も理性には勝てなかったのかもしれません。

 

立花道雪や立花宗茂、とにかく家臣が有能だった大友家

大友家は元々内紛や裏切りが絶えなかった一族で、宗麟も父・大友義鑑(おおともよしあき)とは不仲でした。

宗麟の家督相続を認めない義鑑に対し、宗麟の家臣が起こした二階崩れの乱が原因で義鑑も命を落とします。

 

そんな大友家を支えたのが豊州三老(ほうしゅうさんろう)と呼ばれる家臣たち。

 

  • 立花道雪(たちばなどうせつ)
  • 臼井鑑速(うすきあきはや)
  • 吉弘鑑理(よしひろあきまさ)

 

がその三人です。

 

その中でも特に優秀だったのが立花道雪(たちばなどうせつ)です。

 

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道雪は若い頃に落雷にあい、下半身不随になっていました。

しかし籠に乗って戦場に出て、戦を勝利に導いています。

 

そして、同じく大友家の家臣である高橋紹運から養子をもらい、英才教育を受けさせて自分の跡を継がせています。

 

これが後の立花宗茂。

豊臣秀吉から「西国一の武将」と讃えられる名将です。

 

道雪は1585年に病死するまで、宗麟に仕え大友家に忠義を尽くしています。

 

道雪はとにかく戦に強く、大友家が勢力を拡大できたのは道雪の武功があったからと言っても過言ではありません。

その証拠に、道雪がなくなってから大友家は衰退の一途をたどっています。

 

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大友宗麟は手毬の名手!文化人の顔もあった!

大友家は宗麟の祖父、義長の代に「義長条々」と言う分国法を定めました。

大友家では武芸のみでなく学芸も重視しており、蹴鞠にも深い関心を示しています。

 

そして、宗麟も15歳で蹴鞠を始めています。

蹴鞠の装束も身分や技能によって決められており、宗麟が30歳の時に将軍・足利義輝から、特に技量の高い者に与えられる「香之上」こうのがみと言う装束の着用を許されています。

 

他には茶器を集める趣味もあり、全国各地から大金をかけて名品を集め、大坂城に豊臣秀吉を訪ねた際、茶の湯の第一人者千利休から、宗麟のお茶好きを認められます。

 

キリシタン大名、そして蹴鞠の名手、文化人の顔と宗麟は幅広い分野で活躍していますね。。

 

まとめ

大友宗麟は海外との親交を深め、その最先端の技術や、文化を真っ先に日本に広めています。

当時は外国人との接触も珍しい時代に、ここまで前向きに取り組む武将は珍しいのかもしれません。

 

理想国家を作る事は出来ませんでしたが、数々の日本初の偉業を成し遂げた宗麟は優れた人物だったと言えるでしょう。

 



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