長州藩を倒幕へ導いたのは吉田松陰の門弟たちでした。

そのひとり高杉晋作は、尊王攘夷運動の代表ともいえる人物で、身分を問わず組織した奇兵隊によって倒幕への道筋をつけました。

 

しかし明治維新を迎える前に病に倒れ、帰らぬ人になります。

短い人生を倒幕に捧げた彼の真髄とはいったい何だったのでしょうか?

 

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高杉晋作の生涯を簡単に解説

高杉晋作(1839~1867)は長州藩士の子として萩城下で生まれました。

幼いころから学問に秀でていた晋作は13歳のとき藩校・明倫館に入り、ますます学問に打ち込んでいきましす。

並行して剣術の腕を磨き、柳生新陰流という流派の免許皆伝となるほどに実力をつけていきました。

 

 

1857年、吉田松陰が塾頭を務める松下村塾に入塾し、久坂玄瑞ら藩の若手と長州の行く末や日本の未来、あるべき姿を論じ、意見を戦わせていきます。

 

長州藩から江戸行きを命じられた晋作は江戸に留学。

昌平坂学問所や大橋塾で学問を学び、帰藩した後に、山口町奉行の娘と結婚します。

 

その後、上海に渡った時に、「日本のすぐ近くまで外国の脅威が迫っている。」ということを実感し、危機感を覚えていきます。

(この時の中国はアヘン戦争に負けて欧米の植民地になっていました。)

 

こうした思いから晋作は、江戸郊外に建設中だった英国大使館の焼き討ちを敢行します。

この行動が過激すぎると見た長州藩は晋作を叱責。

すると晋作は自ら隠居を表明し、表舞台から去っていきます。

 

しかし、時代は晋作を必要としていました。

下関砲撃事件で長州が報復攻撃を受けた4ヶ国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)の連合軍との間に和議交渉の場が設けられたのです。

 

晋作は長州藩の責任者(通訳は伊藤博文)として交渉を行い、見事に和議締結をやってのけています。

 

同じころ、長州藩の首脳に幕府恭順派が就いたため、晋作は暗殺を恐れ筑前国に逃れました。

恭順派は晋作に近い考えの家老を切腹させ実権を握ります。

 

こうした状況を変えようと晋作は長州に帰還。

そして下関・功山寺で挙兵して恭順派を攻略し、ついに藩の実権を握ります。

 

翌年には四境戦争を海上から指揮し、幕府艦隊を撤退させる働きぶりをみせました。

この勝利によって幕府の権威は失墜し、長州は倒幕への道を突き進むことになります。

 

その矢先、肺結核に倒れそのまま帰らぬ人となります。

くしくも同じ年、幕府は消滅しました。

 

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高杉晋作が攘夷を決意した瞬間

藩命で幕府随行員となった晋作は、幕府の貿易船で上海に降り立ちました。

そこで見たのは衝撃の光景でした。

 

イギリスとの戦争に敗れ、半ば植民地のようになっている上海の風景。

 

イギリス人の使用人のような扱いを受けている現地の人々。

そこに清国の主権はありません。

 

晋作は何の対策も打たなければいずれ日本もこうなると危機感を抱きました。

晋作が尊王攘夷や倒幕運動に邁進した背景にはこうした事情があったのです。

 

和議交渉で見せた晋作の秘技?

下関砲撃事件に対する連合軍との和議交渉に長州側の責任者として参加した晋作。

そこで見せた晋作の秘技はとても興味深いものでした。

 

連合軍は賠償金を支払うように長州に迫りました。

すると晋作は「幕府や朝廷からの命令によって実行されたものだから賠償金の支払いは幕府に請求せよ」とこれをつっぱねました。

 

つづく彦島租借の要求については、古事記の暗唱を延々と続けることで連合軍を困惑させ、ついに要求を取り下げさせることに成功しました。

(ただし、当時の記述にこの話は載っておらず、通訳だった伊藤博文が後年創作したといわれています)

 

「戦に負けたとはいっても領地を外国に奪われる訳にはいかない・・・。」

この時、晋作の脳裏にあったのは、上海で見たあの光景だったことは言うまでもありません。

 

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ファンは必見!萩の高杉晋作旧宅の写真

山口県萩市には、現在も高杉晋作の旧宅が残っています。

城下町の片隅にある晋作の旧宅はまさに武士の家といった感じ。

 

 

観覧もできるので、高杉晋作ファンであれば必見です。

 

 

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高杉晋作亡き後の奇兵隊

晋作が組織し、自らが総督として指揮した奇兵隊。

少数精鋭部隊として、その戦力の高さ内外にアピールした奇兵隊ですが、晋作の死後に待っていたのは悲惨な末路でした。

 

明治政府によって奇兵隊は新政府軍に編入され、戊辰戦争を戦います。

しかし、山口藩知事になった毛利元徳の改革によって5000人ほどいた隊員のうち3000人ほどが失職させられてしまいます。

 

それも失職したのは農民などの平民と呼ばれる人たちで武士階級の解雇はありませんでした。

このことに怒った元隊士や農民たちによる一揆や襲撃事件が頻発し、山口藩が兵を派遣して鎮圧する騒ぎとなりました。

 

このとき鎮圧する側にいたのが高杉晋作の父・小忠太だったというのはなんとも皮肉なことです。

 

辞世の句に込めた思い

晋作が詠んだ辞世の句があります。

 

「おもしろき こともなく世に おもしろく すみなすものは 心なりけり」

 

がそれです。

 

この意味は「おもしろくないこの世の中をおもしろおかしく生きよう。心の持ちようだ」ということ。

短い人生ながら波乱万丈、懸命に生きた晋作らしい句といえるのではないでしょうか?

 

ただ、晋作の辞世の句にはいろいろな説があるので、詳しくは下記の記事で解説しています。

 

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