幕末には多くの志士が京都で攘夷を叫んでいました。

そんな京都の治安を守るために結成されたのが新選組で、彼らは主に町人や農民出身の若者たちで構成された集団でした。

 

そしてその新撰組のメンバーだったのが斎藤一。

斎藤は新選組三番隊の組長を務める幹部でした。

 

時代が変わり武士の世が終わりを迎えると、新撰組の隊士は次々と命を落としていきます。

しかし斎藤一は明治になって生き続けます。

 

斎藤一とはどんな人物でどんな人生を歩んだのか?

今回は新撰組三番組長の斎藤一に迫ってみます。

 

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斎藤一の生涯を分りやすく簡単に解説

斎藤一(1844~1915)は、幕末の武士で明治時代には警察官を務めた人物です。

1863年、幕府の下、近藤勇らが立ち上げた壬生浪士組(すぐに新選組に改名)に参加し、程なく幹部に任命されました。

翌年には、池田屋事件での功績が認められ、幕府と会津藩から褒賞が与えられています。

 

 

江戸で父・山口右助、母・ますの三子として生まれた斎藤一(生まれたときは山口一という名前)。

斎藤は近藤勇が開いた天然理心流試衛館に出入りして剣の腕を磨きました。

 

19歳のときに小石川関口である旗本と口論になりそのまま切り殺してしまうという事件を起こします。

しかし彼の両親はこの事実を隠すために、そそくさと京都に旅立たせます。

 

父の友人である剣術道場の道場主を頼りに京都でやり過ごし、このとき名前を「斎藤一」としています。

 

その後、京都での将軍警護のために募集された壬生不浪士組に入隊。

剣の腕を買われて新撰組三番組長に任命されるなど、新撰組にとってなくてはならない存在になります。

 

やがて、薩長同盟が結ばれると幕府サイドは窮地に追い込まれていきます。

斎藤が参加した鳥羽伏見の戦いでは近代兵器の前に大阪まで退却せざるを得ない状況になり、その後、近藤勇と分かれて、永倉新八らと一緒に会津藩へ向かいます。

そして、会津では新撰組130名の隊長になっています。

 

会津藩が新政府軍に降伏すると謹慎生活に入り、移り住んだ地で篠田やそと結婚。

明治政府が警視庁を設立すると、斎藤は警察官になっています。

 

この頃、高木時尾と再婚し3人の男の子を授かっています。

警察官時代は藤田五郎に改名していて、この時の斎藤をモデルにしたのが「るろうに剣心(漫画)」です。

 

斎藤は警視庁で順調に出世し、3年後には警部補となっています。

 

その年、西南戦争が起こると、警察部隊の小半隊長として戦闘に参加。

傷を負いながらも敵陣に斬り込み、大砲を2門奪取するといった軍人顔負けの活躍ぶりに、政府から勲章と賞金を与えられています。

 

1892年に退職するまで警察官として勤務。

退職後は師範学校の学生に剣術を教えています。

 

その後、師範学校から分離した東京女子高等師範学校に転職し、庶務や会計を担当。

また登下校の際学生の安全のために交通整理を行うなどしていたそうです。

 

そして長い間の深酒が祟ったたのか、72歳の時に胃潰瘍でこの世を去っています。

 

その最期は武士らしい見事な最期だったといわれていますが、庶務や会計を担当していたというのは、「泣く子も黙る新選組」の三番組長のイメージからは想像できませんね(笑)。

 

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クールでミステリアスなイメージを覆す逸話

斎藤一といえば、何を考えているか分からない謎の人物というイメージを持っている人も多いと思いますが、実はかなりの女好きで知られていました。

 

それを象徴するエピソードがあります。

新撰組が近藤勇派と伊東甲子太郎派の二つに分裂してしまったとき、あえて伊東派にスパイとしてもぐりこんだ斎藤一は、その女癖の悪さで新撰組を追放されたのだと思われてまったく疑われなかったのだとか・・(笑)。

 

その甲斐あってか、スパイに成功した斎藤一の情報により、伊東甲子太郎は「油小路の惨劇」で暗殺をされてしまいます。

 

また、酒豪としても知られており、お酒を飲むと人を斬りたくなって笑いながら斬りつけたなどの逸話も残っています。

クールというより、割とやんちゃで破天荒な人柄が垣間見られますよね(笑)?

 

斎藤一が貫いた会津への熱い忠義

京都で大活躍をしていた新撰組も、薩長同盟の締結を機に不利な状況に追い込まれていきます。

新撰組の敗戦色が濃くなり、鳥羽伏見、甲州勝沼と敗走を続けている中、会津藩から援軍の要請が。

 

その頃、会津はいまにも落ちようとしていました。

撤退案も出ていましたが、斎藤一は「たとえ一人でも残って会津と共に戦う」と宣言をして会津に残ることを選びます。

 

ここで土方歳三と行動を別にすることになり、土方から新撰組を託されて隊長に就任。

しかしそんな斎藤一の奮戦空しく、会津は敗戦して降伏をしてしまいます。

 

 

斎藤は謹慎後に北の辺境の地・斗南藩に左遷。

苦しい状況の中でも新撰組を迎え入れてくれた会津への感謝の想いから、一緒に飛ばされた会津藩の人々と共に貧しい暮らしを送ります。

 

やがて、明治の世になると、会津藩の元家老の取り立てで警察官に任命されました。

西南戦争が勃発するとこれにも参戦しますが、これは、「会津=朝敵」という汚名を晴らすためではないかと考えられています。

 

 

坂本龍馬の暗殺の犯人は斎藤一?

 龍馬暗殺については永遠の歴史ミステリーとしてさまざまな犯人が挙げられていますが、容疑者の一人に斎藤一の名前も入っています。

 

龍馬暗殺の疑いをかけられる理由は、斎藤一が左利きの居合の達人であること。

龍馬の額に残った傷は左利きの剣士に斬られたものだとされているからです。

 

通常右利きであれば斬りかかるのに都合のよい左側ではなくて右側に刀を置いて座るのが武士の礼儀。

斎藤一もこれに倣って右側に置いたため龍馬が油断をしたとも言われています。

 

 

そして、北辰一刀流免許皆伝の龍馬を斬れるのは、剣の達人である斎藤一以外になかなか該当者がいないというのも、斎藤一が犯人であるという説が浮上した理由の一つと考えられます。

 

ただし、見廻組隊士の今井信郎が後に犯行を自供しているので、実際のところ事実は闇の中です。

 

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新選組の粛正役

斎藤は新選組で粛正役を務めていたと言われています。

隊士の中に反幕府勢力である長州藩と繋がりのある者がいると知るや頃合いを見計らって暗殺を実行していました。

新選組の規律を乱す者にも容赦なかったといいます。

 

そして剣の腕が良かったこともあり、隊士が切腹する時に介錯をすることが多かったようです。

 

スパイ活動も斎藤の十八番

斎藤は一時期、新選組を離れ、元隊士らが結成した御陵衛士に入隊していました。

斎藤の入隊理由については諸説ありますが、スパイ活動が主な任務であったと言われています。

 

その後、新選組に復帰する時には御陵衛士から資金を横領して逃げています。

斎藤から情報を得た新選組は御陵衛士隊士らを暗殺し、事実上解散させています。

 

 

武士として生きた斎藤の教え

警察官を退職した斎藤は、会津藩のツテを頼りに学校に勤務し、穏やかな晩年を過ごしました。

それでも剣術の鍛錬を怠ることはありませんでした。

学生に剣術を教えるために、自身も日々、剣術に明け暮れていたようです。

 

そしてその情熱は学生たちだけでなく、自身の子供にも向けられていました。

 

斎藤の孫は「武士たる者は、玄関を出るときは頭から先に出るな、足から出よ、不意に斬りつけられた場合、頭をやられれば致命傷だが、足ならば倒れながらも相手を下から突き上げて殺すことができる」と度々父親に叱られたと懐述しています。

 

これは時代的に考えても、斎藤一が息子に言い聞かせていた教えではないかと思います。

 

三番組長は常にこういった心がけで京都の街を歩いていたのかもしれません。

 

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