今回は第二次世界大戦後の日本を代表する政治家・吉田茂についてです。
吉田茂はどういう人物だったのか?
その生涯と逸話をまとめました。
吉田茂を簡単に解説
吉田茂は第二次世界大戦後の日本を代表する政治家です。
実の父は土佐自由党で活躍した竹内綱で、横浜の貿易商の吉田家に養子に入りました。
1906年に東京帝国大学を卒業して外務省に入省。
外務次官やイタリア・イギリスの大使を歴任して1939年に退官しています。
第二次世界大戦の末期に終戦工作に関わり憲兵隊に拘束されましたが短期間で釈放。
終戦後の内閣では外務大臣を務めています。
反軍部の人物としてGHQから評価された吉田は交渉役にふさわしいと考えられたからです。
1946年に初めて内閣総理大臣となります。
翌年の選挙で敗れていったん退きますが、1948年から1952年まで総理大臣を務めました。
優れた政治感覚と強いリーダーシップで混乱期の日本を立て直し、戦後日本の基礎を築いたとされます。
軽武装・経済重視の政治・外交は吉田ドクトリンと称されました。
在任中の1951年にサンフランシスコ平和条約を結び日本の独立を成し遂げたのが吉田の頂点だったかもしれません。
かつての盟友、鳩山一郎との権力闘争や汚職事件などで吉田の力は低下。
1954年の造船疑獄をめぐって野党から出された内閣不信任案が可決されると総辞職を決め、長期政権に幕を引きました。
政界引退後も強い絵協力を持っていましたが1967年に89歳で死去しました。
吉田茂の年表
1878年 竹内綱の五男として生まれる
1881年 吉田家の養子となる
1906年 東京帝国大学卒業
1909年 牧野雪子と結婚
1939年 外務省退官
1945年 終戦工作にかかわっていたことが発覚し、憲兵隊に拘束される
1946年 自由党総裁になり、内閣総理大臣に就任
1948年 第二次吉田内閣
1950年 第三次吉田内閣
1951年 サンフランシスコ平和条約
1953年 「バカヤロー」解散 第四次吉田内閣
1954年 造船疑獄 第五次吉田内閣
1963年 政界引退
1967年 死去
反戦団体ヨハンセングループ?
ヨハンセングループとは、吉田茂を中心とする戦争終結を目指したグループのことです。
「ヨハンセン」とは監視していた警察・憲兵隊が使っていた暗号で「吉田反戦」の略だとされます。
義理の父で重臣の牧野伸顕(大久保利通の子)、元首相の近衛文麿、元外相の幣原喜重郎、元文部大臣の鳩山一郎などが仲間だったようです。
天皇の直接終戦を訴える近衛上奏を行ったときにその動きが陸軍にバレてしまい、憲兵隊につかまってしまいました。
短期間で釈放されましたが、この時の「実績」でGHQの信頼を得ることになりました。
鳩山一郎との約束
1946年の選挙で鳩山一郎率いる日本自由党が第一党となると、これにより鳩山が内閣総理大臣になるはずでした。
しかし、GHQの公職追放に引っかかってしまいます。
困った鳩山は吉田に総裁を引き受けてくれるよう頼みます。
吉田は辞めたくなったらすぐにやめるという条件で引き受けました。
しかし、鳩山に「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」との言葉はどこへやら、鳩山が追放を解除されても政権を返そうとしませんでした。
そのことはのちの鳩山派との権力闘争に発展します。
大磯の旧吉田茂邸
神奈川県の大磯に吉田茂がかつて住んでいた邸宅が残されています。
もともとは義理の父である吉田健三が建てた別荘でした。
1945年に大磯の邸宅を主な住居として晩年を過ごしました。2
009年に火事で焼失しましたが大磯町郷土資料館の別館として再建されました。
バカヤロー解散
1953年2月28日の衆議院予算委員会で社会党の西村議員に対して「バカヤロー」と発言したことがきっかけで衆議院が解散されたことを指します。
決して大声での発言ではなく、つぶやきをマイクが拾ってしまい騒ぎが大きくなりました。
その後の選挙で自由党は惨敗、かろうじて第一党になったものの吉田の力は大きく低下することになりました。
吉田茂の孫は麻生太郎氏
日本の政治家・麻生太郎さんは吉田茂の孫にあたります。
父の麻生太賀吉は麻生グループの中核企業である麻生セメントの社長でした。
麻生太郎自身も祖父と同様に総理大臣や外務大臣になりました。
また、第二次安部内閣では財務大臣となっています。