小村寿太郎は明治時代の外交官。

小村は日本にとってとても需要な功績を残しています。

 

それを一言で表すなら、「江戸時代から続く不平等条約を改正して問題を終結させた」こと。

陸奥宗光や大隈重信が苦労してきた不平等条約の改正は、小村寿太郎の手腕で完全に解決することになります。

 

では、小村寿太郎はどんな人物だったのでしょうか?

今回は小村の性格や逸話について紹介します。

 

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まずは小村寿太郎の生涯を簡単に解説

小村寿太郎は日向国(宮崎県)生まれ。

大学南校(現在の東大の前身)に入学した秀才でした。

 

はじめは司法省に勤務しましたが1884年に外務省に移ります。

そして外交官として活躍するうちに、陸奥宗光に見いだされます。

 

 

桂太郎が総理大臣になると、日本の外交の中心人物となり、日英同盟、日露戦争、ポーツマス条約などで日本の代表として活躍しています。

1911年には江戸時代末期に欧米と結ばされていた不平等条約の改正という悲願を成し遂げ、改正のその年に小村は亡くなりました。

 

小村寿太郎の3つの功績

小村の重要な功績は3つあります。

一つ目は、イギリスとの同盟(日英同盟)を結んだことです。

 

日本は日清戦争に勝利したといっても欧米の国に及ばない存在でした。

その日本が世界により認められ、当時対立しつつあったロシアと戦うときにイギリスが味方になって応援してくれるもので、日露戦争で日本が勝利することができた理由の一つとなりました。

 

二つ目はポーツマス条約(日露戦争の講和条約)を結んだことです。

まだ負けていないと粘るロシアと、国力が限界を越えそうになっていた日本のお互いの現実を見極めて、ぎりぎりの交渉をしました。

 

三つめは不平等条約の改正です。

日本は外国から入ってくる品物に自由に税金をかけることはできませんでした。

このままだと、外国製品が日本にたくさん入ってきて日本の会社が競争に負けてしまいます。

 

これを防ぐためには輸入品に関税という税金をかけることが有効なのですが、その権利が日本にはなかったのです。

これを小村が改正して、自由に関税がかけられるようになりました。

 

こうして日本は、欧米列強と肩を並べる国に成長できたのです。

 

不平等条約の改正に関しては下記の記事でも紹介しているので参考にしてください。

 

関連記事→3分で分る陸奥宗光!条約改正した領事裁判権や坂本龍馬との関係を解説!

 

背の小ささをからかわれた小村の名返答

公使というのは今でいう大使とほぼ同じ意味で、国の代表という意味になります。

小村は身長が156㎝とも150センチ以下ともいわれ、長身の欧米人からすれば子供のような身長でした。

 

ある時、清国の大臣が小村に対して、「あなたはとても背が小さいが、日本人はみな、あなたのように背が小さいのか?」とからかってきました。

これに対して小村は「日本人は背が小さいものが多いですが、中にはあなた(清国の大臣)のように背が高いものもいます。でも日本では、ただ背が高いだけの人は中身が空っぽかもしれないので重要な仕事は任せません」と言い返しました。

 

このくらい、きれいにカウンターパンチが決まるとカッコいいですよね!

 

陸奥宗光・桂太郎・伊藤博文らとの関り

小村に目をかけ、外交官としての才能を高く評価したのが陸奥宗光でした。

陸奥は難しい交渉をしなければならない清国での外交を小村に任せています。

 

また、総理大臣になった桂太郎も小村寿太郎の才能を見出した一人です。

彼は自分の内閣の外務大臣として小村を迎え入れて外交を任せています。

 

そして小村も交渉困難と思われたイギリスとの同盟、ロシアとの戦後交渉など、桂の期待に見事にこたえます。

 

当初、小村のやりかたを快く思わなかった伊藤博文も小村に協力します。

ポーツマス条約をむすぶために日本をでる小村に「君が帰国した時には、他人はどうあれ私だけは必ず迎えに行く」といい実行しました。

 

プロ外交官としての彼の能力を当時の政治家たちが深く信用していたといっていいでしょう。

 

貧乏、それでもやめられない夜遊び

小村は父親が事業に失敗して多額の借金を背負っていたといわれています。

そのため、債権者が小村の家や役所に押しかけて返済を迫ることもありました。

 

小村の妻は着物をお金に換えたりして、何とか借金取りたちにお金を返していました。

ある時は同僚たちがお金を貸した人たちを集めて、借金の一部を帳消しにしてくれるように頼んだりしました。

 

しかし、そんな中でも小村は夜遊びをしていました。

小村が夜遊びをしているとどこから聞いたのか妻がそれを見つけ出し、人前でも平気で小村に当たり散らしたといいます。

 

これは、文句を言われても仕方がないですよね(笑)。

 

小村寿太郎の最期

1911年に条約改正を成し遂げ、桂太郎内閣が総辞職すると小村は政治の世界から引退しました。

 

その時すでに病気だったのか、同じ年の年11月26日に小村は結核を治すために滞在していた別荘で亡くなりました。

条約改正のプレッシャーから開放された安心感もあったのかもしれません。

 

享年は56歳で、墓所は東京の青山霊園にあります。

 

国の命運をかけて交渉に挑まないといけなかった小村寿太郎の重圧はハンパなかったでしょうね?

想像するだけで頭が下がる思いです。

 



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