大隈重信といえば、早稲田大学の創立者でキャンパスには大きな銅像があるのは有名ですね。

この、大隈重信という人物、実は大学を作った教育者というだけではなく、幕末の志士であり、明治時代には、初代総理大臣である伊藤博文をライバル視していた大物政治家でもあります。

 

では、大隈重信とはどんな人物だったのでしょうか?

 

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大隈重信の略年表

 

1838年 佐賀藩の上級藩士の家に生まれる

1868年 新政府の外国事務局判事となる

1873年 参議兼大蔵卿となる

1881年 開拓使官有物払下げ事件で伊藤博文らと対立

〃  年 明治十四年の政変で、参議を罷免される

1882年 立憲改進党を設立

1888年 外務大臣として条約改正交渉に関わる

1889年 反対派のテロで片足を失い辞職

1898年 隈板内閣(第一次大隈内閣)をつくる

1914年 第二次大隈内閣をつくる

1922年 83歳で死去

 

いまひとつパッとしなかった志士時代

大隈重信は佐賀藩生まれ。

父は砲術士を勤める上士で、幼い頃から藩校の弘道館で勉強をしていました。

しかし、従来の侍の世の中で重んじられていた儒学や朱子学の考え方に満足できず、「葉隠」(はがくれ:武士としての心得や生き方を教える書物)に反発し、1855年には藩校は退学になっています。

 

退学となった重信は、ペリー来航以来若き志士の主流となった考え方である尊皇運動の義祭同盟が結成されると、江藤新平、副島種臣らと共に参加し、重信の考え方も尊皇攘夷におおきく傾いていきます。

また、その頃佐賀藩蘭学寮に入り西洋学問に接し、長崎では英語を学んでアメリカ人宣教師フルベッキと出会って、世界に目を向けた人物となっていくことを決意します。

 

重信は外国人との出会いや交流に恵まれ、尊皇攘夷派ではありますが、同時に、世界の文化や政治に目を開くことができました。

そして、このことが後の重信の活躍のベースとなって行きます。

 

しかし、尊攘の志士としてはあまり功績をあげることはできませんでした。

1864年の長州討伐では佐賀藩が幕府と長州の仲裁をするよう働きかけましたがうまくいかず、1867年には徳川慶喜に大政奉還を勧告するべく副島種臣らと脱藩し上京しますが、あえなく捕らえられ謹慎処分となってしまいます。

 

明治維新で政治家デビュー

あまりパッとしなかった志士時代でしたが、明治維新をむかえると重信にも活躍の舞台がめぐってきました。

新政府では外外国事務局判事として長崎に赴任し、英国公使パークスとの交渉で勇名を轟かせることになります。

 

明治6年には大蔵卿に就任し、明治14年に辞任するまで地租改正や殖産興業政策などで近代日本の繁栄に尽力をしています。

近代工業のシンボルであり世界遺産にも認定された「富岡製糸場」の設立にも伊藤博文や渋沢栄一らと共に中心的な役割を果たしたといわれています。

 

薩摩と長州以外で初の総理大臣への道

政党内閣制の導入や開拓使官有物払い下げ問題などで薩長派の政治家と対立した重信は明治14年に政府を追われることになりました。

この時以来、長州出身の伊藤博文をライバル視するようになったのかもしれません。

 

それでも伊藤博文は、政敵とも言える大隈重信の外交的手腕を評価して外務大臣として迎え入れます。

外務大臣となった重信は、伊藤内閣そして続く黒田内閣と2代にわたって諸外国との不平等条約の改正に尽力します。

 

当時の日本の重要問題は江戸幕府が結んだ不平等条約を改正することでした。

かつてイギリス公使のパークスとも対等にやりあったことがある大隈の力を見込んで、伊藤は大隈を外務大臣に選びました。

 

総理大臣は伊藤から黒田清隆に変わりますが、大隈は外務大臣に留任。

しかし、国家主義を唱える玄洋社の社員に襲撃され右足を失うことになり外務大臣を辞職しています。

 

襲撃で右足を失って大臣を辞職した重信でしたが、政党政治に対する情熱は失われませんでした。

「我輩は爆弾ぐらいで青くなるような腰抜けではない!」と言い放ち、自身の政治家としての活動をますます盛んに行っていきます。

 

そして、明治31年には板垣退助らと共に憲政党を結成。

薩長派閥以外からの初めての内閣総理大臣に就任します。

 

福沢諭吉との出会い早稲田大学設立へ

早稲田大学に並びたつ慶応大学。

その創始者といえば福沢諭吉ですよね?

 

大隈重信と福沢諭吉は同世代の人物ですが、実は当初はあまり仲が良くありませんでした。

どうやら実際に会うまではお互いを「生意気なやつ」と思って嫌っていたようです。

 

しかし明治6年、知識人の親睦会の席上で出会うと、お互いが同じ目標や信条を持っていることを知り、意気投合。

盟友といってもいいほどに一気に親密な関係になったようです。

 

 

大隈重信の東京専門学校(現在の早稲田大学)創立も、福沢諭吉の勧めがあったからだといわれています。

実際に、東京専門学校開校の際には福沢諭吉が出席し、祝辞を述べています。

 

「これからの日本には、世界に通じる人材を育成することが欠かせない。」という二人の信念が、早稲田、慶応と日本を代表する私学の設立を実現させたのでしょう。

 

国民的政治家だった大隈重信

政治家として2度にわたり総理大臣となった大隈重信は、国民的な人気があったようです。

たとえば、野球の始球式ではストライクでも空振りをするのが慣例になっていますよね?

 

これは、大隈重信が大学の始球式で投げた球が大きく外れたのですが、学生が敬意を表して空振りをしたことが始まりなのです。

 

大隈の最期、死因と葬儀

二度目の総理大臣をやめて6年後の大正11年(1922年)、大隈は胆石症のため早稲田にある自宅で亡くなりました。

自宅での告別式の後、日比谷公園で国民葬が執り行われました。

 

国民葬には30万人近くの市民が参列したといわれています。

墓所は東京都文京区にある護国寺にあります。

 

 

大隈重信の子孫

大隈は二人の養子をとりました。

一人は旧南部藩主家から英麿、もう一人は旧平戸藩主家から信常です。

 

信常は衆議院選挙で当選し、爵位を継いだ後は貴族院議員となりました。

現在の読売ジャイアンツにあたる球団の代表取締役会長にも就任しました。

 

信常の子の信幸は最初は貴族院議員、終戦とともに参議院議員となりますが1953年に議員辞職をします。

その後は外務省に入省し、ウルグアイ・コロンビア・ガーナなどの大使となりました。

2004年に死去しました。

 



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