板垣退助は幕末から明治・大正時代にかけて活躍した人物。

自由民権運動を主導者で、歴史の教科書では、暴漢に襲われた時に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ人物として登場します。

 

では、板垣退助はどういった人物だったのでしょうか?

今回は板垣を簡単に解説して、様々な逸話を紹介します。

 

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板垣退助って何をした人?1分で解説!

板垣は1837年に土佐藩の上級家臣の家に生まれました。

少年のころからとてもわんぱくでしたが、母からは「弱いこのいじめはしてはならない」と教えられたそうです。

 

成人して土佐藩の政治に携わるようになると、幕府と共存して政治を行うべきであるとの藩の主流派の意見に対し、武力で幕府を倒すべきだと主張するようになります。

板垣の意見が通り、土佐藩は最終的に薩摩藩などと同盟し武力による倒幕をはかります。

 

板垣退助の銅像

 

戊辰戦争が始まると、板垣は土佐藩の兵士を引き連れて中山道から江戸を目指しました。

途中、甲斐国(山梨県)では新撰組を中心とする部隊と戦い、これを打ち破っています。

 

東北地方では会津藩などと戦い、これにも勝利。

板垣は指揮官としての優秀さを見せつけ、明治政府の中心人物の一人になります。

 

しかし、朝鮮との外交問題で政府の主流派と対立します。

同じように朝鮮と戦うべきと主張した西郷隆盛とともに明治政府を去りました。

 

板垣は明治政府の政策の決め方に疑問を持ち、民衆の意見を取り入れる議会政治を目指して活動を開始。

 

仲間たちと運動を自由民権運動を起こします。

自由民権運動というのは、国会の開設、憲法の制定、不平等条約の改正などを要求した運動です。

 

板垣は政府のやり方に対して、「民衆のためにもっとこうしろ~」という声を上げたという訳です。

 

1881年に10年後の議会開設を政府が約束したことを受けて、自由党を結成。

板垣は全国各地で演説を行いましたが、その最中に反対派に暗殺されそうになったことがありました。

 

その時に叫んだのが「板垣死すとも自由は死せず」という言葉です。

 

1898年、それまで対立関係にあった大隈重信の進歩党と自由党を合同させ、大隈を総理大臣として初めての政党内閣の立ち上げに成功します。

 

この時、板垣自身は重要な閣僚であった内務大臣となっています。

大隈内閣は4か月で崩壊しますが、初の政党内閣として歴史に刻まれることになります。

 

1900年に立憲政友会の設立とともに政治から引退し、1919年に亡くなりました。

 

板垣退助は武田信玄の家臣の子孫

板垣退助の遠い先祖は、戦国時代の武田氏に仕えた武田二四将の一人である板垣信方とされます。

信方は武田信玄の重臣として諏訪地方の平定に活躍しましたが、武田信玄の生涯ただ2回の敗北の一つである上田原の戦いで戦死しました。

 

信方の子孫の一人が乾と名字をかえて土佐藩に仕えたのですが、その子孫が板垣退助だと言われています。

 

1868年、中山道を進んで甲斐を攻めるとき、岩倉具視のアドバイスで先祖の板垣の姓に復帰しています。

退助と武田家のかかわりを知った人々が新政府側に味方するなど、改姓は効果があったようです。

 

板垣退助と坂本龍馬はほとんど面識がなかった?

土佐藩は上級家臣と下級家臣の身分差が厳しい藩でした。

板垣の生まれた乾家は上士(上級家臣)に属します。

 

上士は藩主である山内氏に従って土佐に入国した人々の子孫が中心でした。

 

一方の坂本龍馬は下士(下級藩士)、その中でも郷士とよばれるもので旧領主の長宗我部家の家臣の子孫でした。

 

坂本家の場合はもともと商家でしたが、郷士の身分をのちに取得して武士になりました。

この身分差に加えて、板垣は土佐で活躍したのに対し、龍馬は江戸など土佐以外の地で活躍しました。

 

身分も活躍の場も違っていたため、同じ土佐藩士でも接点は少なかったと考えられています。

 

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板垣退助暗殺未遂!あの名言の真実は?

1882年、自由党の党首だった板垣退助は岐阜で演説会を行いました。

演説を終えて演壇から降り始めたその時、何物かが「将来の賊!」と叫んで短刀で板垣に襲い掛かりました。

 

板垣は左胸と右胸にそれぞれ1か所、右手と左手にそれぞれ2か所、左頬に1か所の計7か所に傷を負いました。

 

「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は襲撃を受けた際に叫んだとされていますが、実は、板垣自身は「アッと思うばかりで声も出なかった」とのちに書いています。

 

声質が似た別に人が叫んだとも、ほかのことを叫んだとも当時の記録に残されていますが、今となっては真相はわかりません。

有名な言葉ですが創作の可能性もあるという訳です。

 

昔の100円札の顔になっていた

今は板垣退助と聞いても、「なんか教科書で習ったことがあるなぁ~」というくらいの印象しかないかもしれません。

ただ、少し前は誰もが板垣退助のことを知っている時代でした。

 

その理由はお札の顔になっていたからです。

下記が板垣の顔が印刷された50銭札と100円札。

 

 

今で言えば、福沢諭吉くらいの認知度があったということですね。

 

板垣退助が購入したルイヴィトンのトランク

襲われたのと同じ年、1882年にともに土佐藩士だった後藤象二郎とともにフランス・イギリスなどへの外遊に出かけました。

その時に、ルイ・ヴィトンのトランクを購入していることが、ルイ・ヴィトンに残された記録から分かっています。

そのトランクは現在、高知市立自由民権記念館に寄託されています。

 

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