ヤマトタケルノミコトって実在した人物なの?

神話ではどんな功績や逸話があるの?

 

よく名前を聞くヤマトタケルノミコトはどんな活躍をしたヒーローなのでしょうか?

今回は神話を分りやすく解説しながら、ヤマトタケルノミコトの魅力に迫ってみます。

 

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ヤマトタケルノミコトはこんな人!簡単に解説!

ヤマトタケルノミコトは古事記では「倭建命」。

日本書紀では「日本武尊」と書かれています。

 

古事記書かれた漢字の”倭”の文字が、矮小、卑屈といった意味につながることから日本書紀ではよりヒーローっぽい文字で表現されたとも言われています。

 

ヤマトタケルは四世紀頃に12代・景行天皇の子供として生まれました。

幼名を小碓命(オウスノミコト)といい、大碓命(オオススノミコト)という双子の兄がいたようです。

 

小さい頃から乱暴で粗雑な性格だったようで、ある時、父の天皇に逆らった兄、大碓命を諭して連れてくるように命じられたヤマトタケルは、言うことの聞かない兄を腕を引きちぎって殺してしまったという逸話があります。

 

この逸話は「古事記」のみに書かれており、「日本書紀」には触れられていません。

しかし、粗暴なヤマトタケルを警戒した景行天皇は自分から遠ざけるために、軍隊をつけずにほぼ単独で九州南部で勢力を拡大していたクマソを征伐するように遠征を命じます。

 

 

クマソ征伐に向かう

命じられたものの部下もいなくて勝ち目がないと考えたヤマトタケルノミコトは、伊勢神宮で叔母のヤマトヒメに相談し、ヤマトヒメから女性の衣装を貰い受けます。

そして、クマソの地に到着すると王のクマソタケル(別名カワカミタケル)が催す宴会に女性に化けて潜入。

酔ったクマソタケルの隙をついて殺してしまいます。

 

この時、クマソタケルからヤマトの強い男という意味で、「ヤマトタケル」と名乗ることを勧められ、これ以降、ヤマトタケルと名乗るようになります。

 

今度はイズモタケル征伐

クマソの帰途、イズモに立ち寄ったヤマトタケルはその地の王であるイズモタケルと仲良くなり親交を深めます。

しかし、ヤマトタケルの本当の目的はイズモタケルを征伐してこの地を平定することでした。

 

ヤマトタケルノミコトは親しくなったイズモタケルが入浴している隙に、その刀を木刀にすり替えます。

そして、その後でイズモタケルと戦って討ち取っています。

 

大和に帰還したら今度は東国遠征へ

クマソ、イズモ両地を平定したヤマトタケルは、さぞかし父である景行天皇にほめられるだろうとい意気揚々と大和に帰還します。

しかし、ヤマトタケルノミコトに命じられたのは関東地方への遠征でした。

 

「これほどがんばっているのに、私は父から本当に疎まれているのか・・・。」

「死んだんだ方がいいと思われているのか・・・。」

 

と思い悩んだヤマトタケルは、再び、叔母のヤマトヒメに相談をします。

すると、ヤマトヒメはヤマトタケルを諭し、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と袋に入った火打石を持たせて送り出します。

 

※天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)はスサノオノミコトが八岐大蛇を退治して手に入れた剣。

 

 

焼津で火攻めにあって危機一髪

東国に遠征したヤマトタケルは、相模の国造(クニノミヤツコ)にだまされて海岸近くの草原で背後から火をかけられ殺されそうになります。

 

その時に、ヤマトヒメから授かった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草をなぎ、火打石で火を放つとまたたくまに敵に向かって炎が燃え盛り、危機を脱することができたのでした。

 

 

海の近くで燃えた草原から、この地は焼津と呼ばれるようになりました。

 

そして、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は草薙の剣と命名されます。

 

今度は荒ぶる海で危機一髪

焼津を抜け出したヤマトタケルは船で海を渡り東国(房総)を目指します。

その途中で、ヤマトタケルを乗せた船は大きな嵐に見舞われ、遭難しそうになります。

 

しかしこの時、大和から同行していた妻のオトタチバナヒメ(弟橘姫)が海が静まることを願って船から飛び降り、自らを生贄になります。

すると嵐はおさまり、ヤマトタケルは無事、東国に上陸することができました。

 

ヤマトタケルは、入水したオトタチバナヒメを思い和歌を詠みました。

 

「君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」

 

この和歌から、木更津、袖ヶ浦の地名が生まれたといわれています。

 

 

伊吹山で危機一髪

東国を平定したヤマトタケルは尾張(今の名古屋あたり)でミヤズヒメという女性と結婚し、伊吹山の荒ぶる神の平定に赴きます。

しかしこの時、なぜか草薙の剣を持たずに赴いたヤマトタケルは素手で殺しますが、その呪いを受けて死んでしまいます。

 

呪いをかけられたヤマトタケルは、帰る途中で「あまりにも疲れて足が三重にも折れ曲がったようだ。」とつぶやき、これが、現在の三重県の名前の由来だといわれています。

 

ヤマトタケルは本当に実在したのか?

このような冒険と遠征を続けたヤマトタケルは、本当に実在した人物なのでしょうか?

ひとつの説として、一人の人物ではなく、各地を平定した大和政権の軍隊の総称ではないかとも言われています。

 

時代としては、聖徳太子が現れる少し前。

ちょうど大和政権が全国を平定し、強大な権力を構築する頃と一致します。

 

また、ヤマトタケルという名前ですが、クマソの王はクマソタケル、イズモの王はイズモタケルと称され、この「タケル」というのは、名前というよりも”将軍”や”大将”などといった称号のようにも思えます。

 

そのため、「タケル」の称号を持った大将が率いた征伐のための軍隊であったとも考えられます。

 

ヤマトタケルの戦略的戦い

ヤマトタケルの遠征をもう一度考えてみると以下のように分析できるような気がします。

 

  • クマソでは女性に化けて倒す → 敵を欺き油断させる戦略
  • イズモでは敵の剣をすりかえる → 敵の武器を無力化する戦略
  • 焼津で火をなぎ払う → 草薙の剣という秘密兵器の活用
  • オトタチバナヒメの入水 → 身代わり戦略

 

いかがでしょうか?

ヤマトタケルという軍隊が様々な戦略や策を用いて成し遂げた全国平定を一人の英雄に見立てて後世への文献として残した。

 

それは、大和政権の行いを神格化するための戦略だったのかも知れません。

あくまでも、ひとつの考え方ですが、そう考えても面白いかな?と思います。

 



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