西郷隆盛とともに幕末・明治を代表する人物である大久保利通。
真面目な現実主義者というイメージがありますが、その一方で大変、子煩悩な父親でした。
そんな彼を支えたのが妻・満寿(満寿子)。
利通とは離れて暮らし、しかも彼には愛人がいたにもかかわらず、妻として大久保家を守り続けました。
では大久保満寿(満寿子)とはどんな人だったのでしょうか?
今回は大久保利通の妻・満寿について詳しくみていきましょう。
単身赴任で愛人あり…利通の妻は大変だった?
大久保利通と満寿が結婚したのは28歳の時。
家が貧しく、父親がお由羅騒動(島津斉彬と腹違いの弟・久光との跡継ぎ争い)で島流しになり、自身も蟄居(自宅で謹慎すること)の処分が下るという、苦難の後の結婚でした。
処分が解けた後は島津久光の下でどんどん出世していった利通。
満寿もこれで幸せな結婚生活を…と思いきや、利通はぜんそくや胃の病気を抱えており、しかも神経質な面があったため、実際のところはかなり苦労させられたようです。
明治に入ると利通は東京を拠点とし、鹿児島に住む満寿とは離ればなれの生活を送ることになります。
利通と満寿の間には4人の息子と1人の娘がいましたが、実は東京におゆうという愛人がおり、彼女との間にも4人の息子がいました。
ただでさえ夫が単身赴任で子だくさん、という状況に身を置いているのに、当の夫は東京でそんな暮らしをしているのですから、現代ならば即刻離婚届を突き付けるシチュエーションかもしれませんね(笑)。
(当時は第二夫人がいるのは普通のことです。)
しかし満寿は、利通が鹿児島を留守にしている間も、夫が不在の家をしっかりと守り抜きます。
やっと上京できたのに…夫・利通、暗殺される
鹿児島で利通がいない大久保家を守っていた満寿は、年長の子どもたちを東京に住まわせ、残りの子どもたちを鹿児島で育てていました。
しかし、明治7(1874)年に上京し、再び利通と暮らし始めることになります。
夫のいない日々から解放されて、満寿は安心したことでしょう。
しかしそんな日々は長くは続きませんでした。
隆盛が鹿児島で自ら命を絶った翌年の明治11(1878)年。
利通は職場に出勤する途中、現在の東京都千代田区にある紀尾井坂で、新政府に不満を持っていた島田一郎らによって暗殺されました。
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夫の衝撃的な死にショックを受けたのが原因だったのか、満寿も利通が亡くなってわずか7か月後に亡くなっています。
実は子孫もすごい! 大久保家の半端じゃない家系
子だくさんだったためか、利通は子孫に有能な人物が多いことでも知られています。
子どもたちの中で最も有名であろう人物が、イタリア公使やオーストリア大使、そして文部大臣を務めた牧野伸顕(のぶあき)です。
彼は隆盛と愛加那の息子である菊次郎や、村田新八の息子である十蔵などともにアメリカのフィラデルフィアで中学に通ったという経験の持ち主。
太平洋戦争の開戦に反対し、開戦した後も早期の終結を目指して動きました。
伸顕の証言によると、父の利通は子どもを大切にし、出勤前に抱き上げて可愛がったり、書斎で遊んだりしていたそうです。
安倍内閣で副総理と財務大臣を務める麻生太郎元総理も、利通の玄孫(ひ孫の子ども)にあたります。
大久保家と西郷家は親戚になっていた!
大の親友でありながら、西南戦争では敵味方に分かれることになってしまった大久保利通と西郷隆盛。
結果的には喧嘩別れすることになってしまった2人ですが、子孫はどのような交流をしていたのでしょうか?
実は、大久保家と西郷家は親戚関係になっています。
利通の妹の孫は西郷家からお嫁さんをもらっているんです。
時代の流れで袂を分かつ事になった二人ですが、本人達だけでなく親族も、相手に対する尊敬の念をいだき続けていたのではないかと思います。
離ればなれの時期がありながらも、ずっと利通を支え続けた満寿。
利通の後を追うようにして亡くなったのも、利通を愛したがゆえのことだったのかもしれません。
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