薩摩藩から13代将軍・徳川家定に嫁いだ篤姫。

その篤姫を支え続けたのが幾島です。

 

お付きの女性の中で最も身分が高い老女だった幾島は、将軍の妻であるがゆえに自由に動けない篤姫の代わりに、歴史に残る大きな出来事に関わり続けました。

そんな彼女の人生は、どのようなものだったのでしょうか?

 

今回は篤姫を陰ながら支え続けた参謀・幾島について詳しくみていきましょう。

 

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島津斉彬の命で篤姫の老女に

幾島は文化5(1808)年に、朝倉孫十郎孝矩の娘として生まれました。

彼女の家は祖父の代に薩摩藩に召し抱えられ、父の孫十郎は江戸・大坂留守居や御側御用人を務めます。

 

孫十郎はお金に困っていた藩を何とかするために江戸で使うお金を節約しようと、藩主の島津斉興と同じく江戸に住んでいた、先代藩主の斉宣と先々代藩主の重豪のどちらかが薩摩に帰るように進言します。

これはかなり勇気のある直訴でしたが、その行動力があだとなり、自らの役割を解任された上で、薩摩で屋敷の門を閉めて昼間の出入りを禁じるという処罰を受けてしまいます。

 

そして幾島は13歳の時、斉宣(なりのぶ)の娘である郁君(いくぎみ)の御側女中となります。

この郁君は公卿(くぎょう。朝廷の高い身分の役人)の近衛忠凞(このえただひろ)の正室だった人で、夫の忠凞はのちに斉興の次の藩主・斉彬に頼まれて、篤姫を自らの養女に迎えます。

 

郁君が亡くなった後も近衛家に仕えた幾島でしたが、篤姫が時の将軍・徳川家定と結婚することになったため、斉彬の命で篤姫の老女として江戸城に上がることになります。

そして篤姫と共に江戸城に入った幾島は、幕府内での工作を進めていく事になります。

 

将軍継嗣問題…篤姫の裏工作に協力する

家定と結婚した篤姫は、斉彬から密命を受けていました。

この当時、家定が病弱で子どもがいなかったため、次の将軍を誰にするかという議論が始まっていました。

候補にあがっていたのは一橋慶喜(のちの15代将軍・徳川慶喜)と徳川慶福(のちの家茂)。

 

慶喜を支持していた斉彬は彼が跡を継げるように、篤姫に裏工作をさせようと考えていました。

しかし結婚した時の篤姫はまだ数えの21歳。

あちこちに根回しをするには若すぎますし、そもそも将軍の妻が積極的にそんなことをしていたらすぐにばれてしまいます。

 

そこで篤姫の代わりに活躍したのが幾島。

幾島は篤姫が裏工作をしやすいように薩摩藩と密に連絡をとり、斉彬の命で動いていた西郷隆盛と篤姫の間も取り持ちました。

 

つまり、幾島は篤姫の侍女の筆頭であると共に、斉彬が送り込んだスパイという側面を持っていた訳です。

この計画は上手く運んでいるように思われましたが、井伊直弼が大老に就任して慶福を跡継ぎに決定したことで、幾島の努力は実を結ぶことなく終わってしまいます。

 

江戸城無血開城にも力を尽くす

家定が数えの35歳で亡くなると、篤姫は出家して天璋院と名乗ります。

幾島はその後病気になり大奥を去りますが、徳川家と薩摩藩の間で問題が起きると、その度に両者の間に入って調整役を務めました。

 

徳川慶喜が大政奉還を行った後も政治の中心に居座ろうとしたために起きた戊辰戦争で、薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍が江戸城に迫りました。

 

この時、篤姫が江戸での衝突を避けようと新政府軍にいる西郷隆盛に手紙を書くのですが、体調が悪化し、自分で歩くことすらできない状態であるにもかかわらず、この手紙を新政府軍側に届けたのが幾島でした。

 

満身創痍の幾島が行動を起こしたのは薩摩藩のためか?幕府のためか?

それとも篤姫の頼みだったからなのか?

 

この時の幾島の行動で江戸の町が戦火から救われています。

僕のイメージですが、幾島からは自分に厳しく、与えられた使命は何が何でも全うするという芯の強さを感じます。

 

病気に苦しんでも、仕えてきた篤姫のために力を尽くした幾島。

彼女は明治3(1870)年に東京で亡くなっています。

 

現在、幾島の墓は東京都杉並区の大円寺にありますが、鹿児島市内にも招魂墓(供養塔)が建てられ、今でもたくさんの人が訪れて彼女の功績をしのんでいます。

 



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