徳川幕府最後の将軍・慶喜の父として知られる徳川斉昭。

幕末の様々な騒動に関わった彼は「烈公」と呼ばれています。

 

そんな彼の波乱万丈な人生は、どのようなものだったのでしょうか。

今回は徳川斉昭の生涯に迫ります。

 

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将軍の子と藩主の座を巡って一騒動

斉昭は水戸藩7代藩主・治紀(はるとし)の三男として、江戸にある水戸藩の屋敷で生まれます。

水戸藩は徳川家の親戚である親藩で、その中でも尾張藩・紀伊藩と並ぶ御三家の一つでした。

 

彼は子どもの頃から、尊皇攘夷(天皇を政治の中心とし、日本から外国人を追い払うべきという考え)を基礎とした水戸学という学問を学んでおり、これが大人になった後も斉昭の行動の源となるのです。

 

 

彼の波乱万丈な人生は、まず藩主になるところから始まります。

父の後を継いだ兄・斉脩(なりのぶ)は体が弱かったため、できるだけ早く次の藩主を決める必要がありました。

 

候補になったのは斉昭と、時の将軍・家斉の息子である清水恒之丞。

斉昭は藩の中を改革してほしい一派が、恒之丞は幕府からの援助を期待する一派が支持していました。

 

そんな両派の争いが過熱する中、斉脩の体調が悪化し死去。

彼の死後、斉昭を自分の養子とするようにと書かれた遺書が発見されたため、このお家騒動は斉昭が次の藩主に就任することで決着することになります。

 

藩主になり藩独自の改革を行う

藩主になった斉昭は、天保の改革と呼ばれる改革に取り組みます。

ここがちょっとややこしいのですが、天保の改革は幕府も行っており、この場合は水戸藩の中で独自に行われた改革のことです。

 

斉昭は改革に取り組むために子どもの頃から水戸学を教わり、自分を次の藩主に推した会沢安(あいざわやすし)や、会沢と同じように自分を支持した藤田東湖などを起用します。

 

水戸藩の天保の改革はいろんな分野に及びました。

鉄砲を作らせたり、蝦夷地(現在の北海道)の開拓を目指して船を出したり、藩士を教育するために弘道館という藩校を設立したり…といった具合です。

 

ところがこの改革が幕府の怒りを買うことになります。

その原因の一つとして挙げられているのが、斉昭の仏教嫌いにお寺が怒ったからでは?というもの。

 

水戸学には「敬神廃仏(神道=神社を大事にし、仏教=お寺を排除する)」という考えがあり、斉昭もお寺や神社を監督する寺社奉行に「ゆくゆくは仏のいない国にし、神道を大事にすることを目標として改革を進めるように」と命じています。

このために、斉昭は190か所のお寺を破壊させ、藩内のお寺から鐘などを没収して大砲の材料にしたのです。

 

まあ、こんなことがあったらそりゃあお寺は怒りますよね・・。

斉昭さん、ちょっと過激すぎました・・・。

 

 

斉昭、藩主やめたってよ…その後

そういうわけで、弘化元(1844)年の春、斉昭はいきなり幕府から「江戸に来い!」と呼び出しをくらい、翌月には隠居と謹慎を命じられてしまうのです。

隠居を命じられたので、藩主を続けることができなくなり、やむなく長男の慶篤(よしあつ)に跡を継がせます。

 

こうして藩主ではなくなった斉昭ですが、藩内で彼を支持している人々は黙っていなかったのです。

彼が行った検地(土地を調査すること)で貧しさから解放された農民の間から、彼の名誉回復と藩の政治への復帰を願う声が上がり、その運動はどんどん広がりを見せていきます。

 

おかげで半年後に謹慎が解除された斉昭ですが、正式に藩の政治に復帰することが認められたのは、さらに何年も経った嘉永2(1849)年の春になってからのことでした。

 

ペリー来航で復活したものの…

斉昭が完全復帰した後、日本を揺るがせる大事件が起きます。

黒船でおなじみのペリー来航です。

 

ペリーから「開国シテクダサイ」と要求を突き付けられた老中(幕府最高の地位で、将軍を助けて政治を行う役職)の阿部正弘は、この状況をどうにかするために、斉昭を今で言うところの外務大臣と防衛大臣を足したような海防掛参与として幕府に迎えます。

 

とはいっても実は、天保の改革に怒って斉昭に隠居と謹慎を命じたのは、他でもないこの人なんですけどね…。

 

かくして幕府の政治に参加することになった斉昭は、開国の交渉を引き延ばしている間に軍事力を上げるべきだと訴え、基本的に「開国ヤダ!」と主張し続けます。

しかし正弘が亡くなり参与を辞任。

 

その上、嫌いな井伊直弼が大老(老中と同じく、幕府最高の地位)に就任したため、斉昭はもう一バトルする羽目になってしまうのです。

 

 

井伊直弼とのラストバトルと最期!

大老に就任した井伊直弼は、さっそく朝廷(皇室のこと)の許しを得ずに、アメリカと日米修好通商条約を結びます。

 

この条約は、正弘が結んだ日米和親条約が「開国はするけど、商売の取引はしないよ」という内容だったのに対し、「前よりたくさん開港するし、商売の取引するし、外国人が住むところを用意するし…とにかくいろいろするよ!」という、斉昭が怒るどころかマジ切れする内容でした。

 

それに加えて直弼が次の将軍に斉昭が推していた息子の一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)ではなく、紀州藩主の徳川慶福(よしとみ。後の家茂)を選び、慶喜派を徹底的に弾圧する安政の大獄を始めます。

 

安政の大獄というのは、吉田松陰や橋本左内が捕えられたあの有名な出来事です。

実は、斉昭もこの時に水戸で死ぬまで謹慎するように命じられています。

 

そして水戸での謹慎が続く中、斉昭は最期の時を迎えます。

満月を見てトイレに行こうとした時、斉昭は急に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまいます。

 

死因は心筋梗塞と言われていますが、詳しいことは分かっていません。

 

桜田門外で井伊直弼が討たれてから約半年。

烈公と呼ばれた荒々しい気性の斉昭は、謹慎の身のまま亡くなっています。

 

日本の将来を思ってただひたすらに行動してきた斉昭。

茨城県水戸市には斉昭と慶喜の銅像が建てられていることから、地元の人からはとても愛された人物だったことが分かります。

 



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