長い間仲が悪かった薩摩藩と長州藩がタッグを組んだ薩長同盟。

そして、将軍・徳川慶喜を説得して政治を行う権力を朝廷(皇室のこと)に返還させた大政奉還など、幕末から明治にかけての大きな出来事に関わってきたのが小松帯刀(こまつたてわき)です。

 

小松帯刀は実力を認められながらも、若くして病に倒れたので「幻の宰相」と呼ばれています。

ただ、実績はあまり知られておらず、短命だったこともあり、知名度も西郷隆盛や大久保利通と比べてかなり低いです。

 

では、彼はどのような人物だったのか?

今回は小松帯刀の功績に迫ってみましょう。

 

スポンサードリンク

篤姫と幼なじみ? 帯刀の生い立ちと人となり

西郷隆盛より8歳年下で、大久保利通より5歳年下の帯刀は、現在の鹿児島市喜入町の領主である肝付兼善の3男として生まれました。

彼が生まれた喜入のすぐ隣が、篤姫が生まれた今和泉島津家の領地だったので、彼と篤姫は幼なじみだったといわれています。

 

 

その後帯刀は小松清猷の妹のおムコさんとなり、小松という名字になって家を継ぎました。

 

28歳で家老に! 驚きのスピード出世

その後、帯刀は島津斉彬に見い出されてどんどん出世。

斉彬が亡くなった後に藩主となった忠義の父・久光(斉彬の母親違いの弟)のそばに仕え、斉彬の遺言を守って京に上る久光に同行しています。

 

薩摩に戻ると、帯刀は家臣の中で最も高い地位である家老に昇進します。

この時なんと28歳。とんでもないスピード出世ですね。

 

帯刀はスピード出世するほどの並外れた実力を持っていながら、人を出身の藩や身分で差別することがありませんでした。

誰とでも分け隔てなく接することができるこの人柄が色々な交渉で生きることになります。

 

仲が悪かった薩摩藩と長州藩で薩長同盟を結ぶ!

薩摩藩と長州藩がタッグを組んだ薩長同盟には、その後の倒幕(幕府を倒すこと)運動を勢いづけるほどのインパクトがありました。

なぜならこの同盟が実現するまで、薩摩藩と長州藩は仲が悪いことで有名だったからです。

 

というのは元々、長州藩は天皇を国の政治の中心とし、日本に近づく外国人を追い払おうと考える尊皇攘夷派。

薩摩藩は幕府と朝廷が協力して外国人を追い払っている間に、幕府を立て直そうと考える公武合体派という違いがありました。

 

そのような状況の中、勢いを失いつつあった長州藩は、警備していた京都御所の禁門(蛤御門とも呼ぶ)で、薩摩藩と同じく公武合体派である、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が率いる軍と戦います。

この戦いで薩摩藩が容保の軍に加勢したために長州藩は敗北してしまいます。

以来、薩摩藩と長州藩の間にはわだかまりが残ったままになっていたのです。

 

この関係が幕府が「禁門の変の時に、長州藩が御所に向かって発砲したから」という理由で、長州藩を叩きつぶすことにした長州征伐をきっかけに少しだけ改善します。

幕府が熱くなっている中、幕府軍の参謀(指揮官の補佐役)だった隆盛が、自ら長州藩に乗り込んで降伏するよう説得したのです。

 

隆盛がこのような行動をとったのには、後に江戸城無血開城を共に成しとげる勝海舟から「国内で戦争をしている場合じゃない。実力がある藩同士で話し合って国を作っていかないと」とアドバイスを受けたことが影響しているといわれています。

そしてここから、薩摩藩と長州藩は歴史に残る一大事となる薩長同盟へと向かっていくのです。

 

帯刀活躍! ついに実現した薩長同盟

お待たせしました、やっと帯刀のターンです。

長州征伐での薩摩藩と長州藩の雪解けを経て、彼は薩長同盟を実現するために動き始めます。

 

この時、薩摩藩と長州藩の仲介を担った人がいます。

ご紹介しましょう。土佐藩が生んだスーパースターにして、

 

「日本の夜明けは近いぜよ!」

 

の名言でおなじみの坂本龍馬です。

 

二度に渡る長州征伐や外国との戦いを経て、薩摩藩と長州藩はどちらも「藩の力を底上げして、幕府に対抗しよう。そのためには武器が必要だ」と考えるようになります。

しかし長州藩は状況が状況なので、そう簡単に武器を手に入れられる状態ではありません。

 

そこで帯刀は、龍馬が起こした日本初の株式会社・亀山社中(のちの海援隊)の立ち上げを支援し、ここから薩摩藩が買ったということにして長州藩に提供することにしたのです。

ここまで来ると、あんなに仲が悪かった薩摩藩と長州藩の距離もだいぶ近くなってきました。

 

というわけで薩摩藩と長州藩は、帯刀の屋敷でついに正式な同盟を結び、ついでというわけではありませんが、龍馬の出身地である土佐藩とも薩土盟約を結ぶことに成功するのです。

 

この翌年、帯刀は藩主が留守の間に代理となる城代家老に就任。

薩摩藩の歴史上、城代家老に登りつめた人は10人しかいないので、帯刀がいかにすごかったかがよく分かります。

 

 

将軍慶喜に大政奉還をアドバイス…その後

薩摩藩の藩主代行である城代家老となった帯刀は、15代将軍・慶喜に、政治を行う権力を朝廷に返還する大政奉還を行うようアドバイス。

これを見事に実現させます。

 

明治維新の後も、能力を見込まれて様々な役職に就いた彼ですが、かねてから痛風・糖尿病・脚気(かっけ)といった病気にかかっていたため、明治3(1870)年に36歳の若さで世を去りました。

 

短い生涯の間にいくつも大仕事を成しとげた帯刀。

生前の彼を知る人は、誰も彼のことを悪く言わなかったといいます。

 

やはりいつの時代も、仕事ができる人はコミュニケーション上手ということなのでしょう。

現代では『小松帯刀』という名前の芋焼酎が発売されているのですが、これを見ると帯刀がどれだけ地元の人に愛されているかが分かります。

 

 

 

これは鹿児島限定パッケージですが、このように偉人は地元の人に愛されてこそその名前が後世に語り継がれていくんですね。

 



Sponsored Link