今回取り上げるのは、薩摩藩10代藩主・島津斉興の側室(身分が高い人の愛人)であるお由羅の方です。

お由羅の方は幕末の薩摩に混乱をもたらす発端となった人物。

 

斉興と正室(正式な妻)の周子との間に生まれた斉彬を推す一派と、お由羅との間に生まれた久光を推す一派が次の藩主の座を争ったお家騒動(お由羅騒動)を起こした張本人として知られています。

 

世間一般では「悪女」というイメージがあるお由羅ですが、いったいどのような生涯を送ったのでしょうか。

 

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お由羅の方が島津斉興の側室へ

江戸時代は女性の情報が残されることが少なかったため、お由羅の方に関しても詳細な経歴やはっきりとした誕生日などは分かっていません。

寛政7年(1795年)生まれであることが分かっているぐらいです。

 

お由羅は江戸の町人でありながら斉興に見初められ、20歳になる前に側室の座を射止めます。

今で言うところのシンデレラストーリーですね。

 

江戸時代、大名は幕府から参勤交代で江戸と自らの藩を行き来することが命じられていました。

この時、大名がちゃんと江戸に戻ってくるように正室が人質として江戸の屋敷に残され、自らの藩には側室を住まわせていました。

 

お由羅も同じで「御国御前」と呼ばれ、正室の周子が亡くなった後は、正式な妻と同じような扱いを受けます。

 

お由羅騒動のきっかけ…斉興はなぜ斉彬を藩主にしたくなかった?

斉彬派と久光派が次の藩主の座を争ったお由羅騒動ですが、そもそもは斉興が正室の子供である斉彬ではなく、側室のお由羅の子供・久光を次の藩主にしようとしたところから始まりました。

では、どうして斉興は斉彬が次の藩主になるのを嫌がったのでしょうか?

 

江戸で生まれ育った斉彬は視野が広く、高野長英や箕作阮(みつくりげんぽ)などの蘭学者(オランダの学問に詳しい人)に学んだり、自らもオランダ語を勉強したりしていました。

ところがこれに斉興は危機感を持ちます。

原因は斉興のおじいちゃん、つまり斉彬から見てひいおじいちゃんにあたる薩摩藩8代当主・島津重豪(しげひで)でした。

 

この重豪は学問や文化を重んじた人。

藩校の造士館(ぞうしかん)や演武館を作って武士に教育を受けさせたり、農業や動植物に関する今で言うところの百科事典を編集させたりしています。

また、現在の鹿児島で最も大きなアーケード街・天文館の語源となった天文台を作ったり、後の薩摩藩の発展につながる事業をたくさん手がけ、自らもオランダ語や中国語を勉強して、長崎の鳴滝塾で診察や教育を行っていたドイツ人医師・シーボルトから直接教えを受けています。

 

蘭癖(らんぺき)、要するにオランダ大好きおじさんと呼ばれるほど、外国の学問に理解があったのですが、同時に問題大アリの人でもありました。

 

その問題とは簡単に言うと、お金の無駄遣い。

自らの代でいろんな事業を手がけたことで、藩のお金を使い過ぎてしまったのです。

 

更に江戸の藩の屋敷が火事になったり、桜島の大噴火や藩内の風水害が重なってしまったため、藩自体が借金まみれに。

できてしまった借金の額は500万両!

 

現在のお金で約2500億円という、とんでもない額です。

これが、孫である斉興にとって非常に大きなトラウマとなっていました。

 

もしも斉彬が、おじいちゃんのように藩のお金を湯水のように使ってしまったらどうしよう・・・・。

そんな斉興の心配が、お由羅騒動につながるのです。

 

お由羅が呪いをかけた!? 歴史に残る大騒動

おじいちゃんの悪夢再びを恐れた斉興は、斉彬とは逆に保守的な考えの持ち主である久光を次の藩主にしようとします。

久光の母であるお由羅にとってこれほど嬉しいことはなかったに違いありません。

 

この時、お由羅の方の心の中に何としてでも我が子を藩主の座につけたいという親心が沸き起こったのだと思います。

 

息子がお殿様になるなんて、人生ゲームではあがりに等しいことです。元は町人だったのにラッキー!

かくして斉興とお由羅、そこに家老(藩の家臣の中で最も高い地位で、藩主を助けて藩の政治を行っていた者)の調所広郷(ずしょひろさと)も加わって、久光を次の藩主にするための一派が結成されます。

 

しかし、斉彬を支持する一派も黙っていません。

斉彬を次の藩主にするため、調所を最初のターゲットに定めます。

 

調所は、藩を借金まみれにした張本人である重豪に抜擢されて、傾いていた藩の経済状況を立て直した人だったのですが、そのために秘密の貿易に手を出しているという疑惑がありました。

この疑惑を斉彬派が告発。その結果、調所は家老の座から引きずり下ろされ、自殺という悲劇的な最期を迎えます。

 

これで不謹慎ながらも有利になった斉彬派でしたが、そう簡単にはいきませんでした。

斉彬の2人の子どもが相次いで亡くなり、斉彬自身も病を抱えたのです。

 

これを斉彬派は「お由羅の方が呪いをかけたからだ」とブチ切れ。

お由羅と久光派を暗殺しようと計画しますが、それを知った斉興の怒りの矛先は斉彬派に向けられました。

 

その結果、赤山靭負(ゆきえ)などの計画に参加した斉彬派の者たちは、切腹や島流しなどを言い渡されます。

 

幕府にばれた!お由羅騒動の果てに待っていたもの

こうしてどんどん複雑になっていったお由羅騒動にも、ついに終わりの時がやってきます。幕府にばれたのです。

騒動の責任を取らされた斉興は隠居を命じられ、代わりに新しく藩主に就任したのは久光ではなく斉彬の方でした。

 

お由羅、人生ゲームのあがりならず・・・。

と思いきや、お由羅の運はここで尽きなかったのです。

 

藩の発展に貢献した斉彬でしたが、藩主になって7年5か月後に急死。

遺言によって久光の子・忠義が次の藩主に就任し、その後ろ盾となった久光が実質的に藩を治めることになります。

 

自らの悲願が実現したお由羅は、それを見届けた後に死去。

薩摩藩の歴史に残る大騒動は、こうして完全に幕を下ろします。

 

かわいい息子・久光のために大騒動を起こしたお由羅。

子供かわいさのために薩摩藩にお家騒動を起こしたために、今では「悪女」として語り継がれています。

 

ただ、当の久光は斉彬と仲が良く、久光は有能な兄・斉彬を慕っていたといわれています。

その証拠に、斉彬は藩主に就任した後、自らが次の藩主になるのを阻止しようとした久光派の者たちを処罰しなかったのです。

 

親の心子知らず、ならぬ子の心親知らずといったところでしょうか。

久光が藩政のトップに立ったことで、結果的にお由羅の願いは果たされたことになります。

 



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