「西郷どん」の愛称で知られる西郷隆盛。
明治維新を成功に導いた立役者として有名です。
しかし、西郷隆盛の人生は決して順風満帆なものではなく、自殺を考えるまでに追い込まれた時期もあります。
そんな西郷は、どのようにいかにして歴史の表舞台に登場するようになったのでしょうか?
そこで今回は、西郷隆盛の処世術を通じて彼の生きざまに迫ってみたいと思います。
1分で分かる西郷隆盛の生涯
西郷隆盛(1828~1877)は薩摩藩の下級武士の家に生まれました。
20代はじめ、新藩主となった島津斉彬に取り立てられ、徐々に藩政に関わるようになっていきました。
斉彬の養女・篤姫が将軍家定に輿入れする際、江戸までの手はずを整える役割を任されていたのが西郷でした。
西郷は自分を見出してくれた斉彬に恩を感じ、手となり足となりそれに応えようとしましたが、それは長くはつづきませんでした。
斉彬は病に倒れ亡くなってしまったのです。
訃報に接し絶望した西郷は、殉死しようとしました。
しかし、付き合いのあった月照という僧に「斉彬公のご遺志を継ぐことが重要」と説得され、思いとどまります。
その頃は安政の大獄が行われていた時期で、一橋派であった斉彬の遺志を継ぐにはあまりに困難でした。
西郷は藩命によって無役となったばかりか、奄美大島へ流されてしまいます。
数年の後、藩政に復帰した西郷は、禁門の変や2度の長州征伐で実戦を経験し、指揮官としての才能を開花させていきます。
薩長同盟が締結されると倒幕という流れに時代が大きく転換。
徳川慶喜による大政奉還が実現すると、同志とともに王政復古を成し遂げ、続く戊辰戦争で旧幕府軍を打ち破って、新時代の扉を開きました。
時代が明治となってからは、大日本帝国陸軍の初代陸軍大将を務めた後、政治方針の違いで大久保利通や木戸孝允と決裂。
故郷・鹿児島に帰って私学校を創り、若者たちの教育に尽くします。
やがて明治政府が発令した廃刀令をきっかけに士族の不満が爆発。
私学校生徒による反乱軍が組織されると、西郷は彼らの先頭に立って反乱軍を指揮します。
反乱軍は熊本の田原坂などで善戦しましたが、最期は鹿児島に追い詰められ、西郷は城山で自刃します。
大恩人・島津斉彬
島津斉彬が藩主に就いたころ西郷は郡方書役助という役職に就いていました。
あるとき同僚の不正の事実を掴んだ西郷は、斉彬に直訴し、この同僚を解任するように求めました。
しかし、斉彬は、それに応じないばかりか融通が利かないと西郷を責め立てました。
納得のいかない西郷でしたが、後日、斉彬は西郷を御庭方役に登用し、藩政に関わらせました。
斉彬は西郷の正直な気持ちを買いつつも、それだけでは駄目だと諭したのでした。
西郷が明治の世を切り拓く立役者となれたのは斉彬のこうした気遣いがあったからかもしれません。
西郷の身長や体重は?
ドラマや小説などでは大男として描かれることの多い西郷隆盛。
その実態はどうだったのでしょうか?
ある記述によれば、身長 5尺9寸8分 体重 29貫 とあり、現在の尺度で計ると身長はおよそ181cm。
体重およそ109㎏なので、今でも通用するほどの大男だったといえます。
ちなみにタバコは大好きでよく吸っていたらしいですが、酒はまったく駄目で下戸だったそうです。
西南戦争の始まりと隆盛の最期
西郷隆盛の人生のクライマックス、西南戦争。その発端はあるひとつの出来事から始まりました。
鹿児島にあった陸軍の火薬庫。
ここから火薬や弾薬が何の通達もなく、陸軍によって運び出されていることを私学校生徒たちが知ります。
実際、陸軍は私学校に不穏な動きありと見て、武器を使わせないために運び出しを行っていました。
この行動に危機感を覚えた私学校生徒たちは、自らの意思で火薬庫を襲い戦闘態勢に入ります。
まさか、生徒たちが反乱を起こすとは夢にも思っていなかった西郷は、知らせを聞き驚きました。
さらに政府が自らの殺害を画策していると聞くや、もう後戻りはできないと覚悟を決めます。
私学校の生徒らを中心に組織された反乱軍を率いて鹿児島を発った西郷は熊本城で政府軍と衝突。
一時は善戦しましたが、準備不足の反乱軍は次第に劣勢に立たされ退却を余儀なくされてしまいました。
5ヶ月の戦闘の後、西郷は私学校のほど近くにある城山という地にいました。
政府軍が城山に総攻撃を開始すると、西郷は腹と股に銃弾を受け、近くにいた別府晋介に「普どん、もう、ここでよか。」と、介錯を頼みます。
これが西郷隆盛の最期の言葉。
別府晋介の介錯によって、西郷隆盛はその生涯に幕を閉じます。
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西郷隆盛の首はどうなった?
西郷隆盛の首は政府軍に取られないように、折田正助邸の門の前にある溝に埋められました。
しかし西南戦争が終結した後に、陸軍の千田登文が溝に埋められている西郷の首を発見します。
そして山県有朋が検分した後、胴体とともに埋葬しています。
なので、西郷隆盛の首は遺体と一緒に現在の南洲墓地に埋葬されています。
西郷の首の行方については諸説ありますが、僕はこれが1番信頼性のある話だと思っています。
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