あなたは戦国武将の中で誰が一番好きですか?
こう聞くと、だいたい最初に挙がるのは戦国三英傑の中から1人、そしてそこからその家臣が次々と挙がるはずです。
例えば、本多忠勝、石田三成、明智光秀、柴田勝家、服部半蔵、加藤清正・・・・という感じに。
その中で、前田利家も人気・知名度共にかなり高いはずです。
利家に関しては大河ドラマにもなったことがあるし、逸話に関しても既に多くの人がご存知でしょう。
ここでは、主に初めて前田利家を知った人に彼の人物像を紹介したいと思います。
もう知っているよそんなの、という人も何か知りたいことがあるかもしれませんからさらっと目を通してみると面白いですよ。
前田利家の略歴
【名前】 前田利家(まえだとしいえ)
【生没年】 1538年~1599年
【別名】 犬千代、槍の又左
【主君】 織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀頼
【特技】 槍、そろばん
【趣味】 キリスト教、茶の湯、漢籍を読むこと
【性格】 剛毅豪胆、男前、体育会系、アニキ分
【親友】 豊臣秀吉
【尊敬する人】 柴田勝家、織田信長
【仲が悪い人】 前田慶次、徳川家康(同僚)
第一の主君・織田信長
前田利家は1538年、尾張国(現在の愛知県西部)に代々続くとされる土豪の家に四男として生まれました。
彼にはたくさんの兄弟がいましたが、この時代には四男というと決して立場が高いわけじゃなく、成人しても普通は兄達には分家や家臣として扱われるのではっきり言うと出世はあまり望めない生まれでした。
しかし利家が14歳の時、主家である織田家で当主が若い信長に代替わりすると利家は信長に側近として仕えるようになり頭角を現します。
利家は若い頃から傾奇者、簡単に言うとやんちゃで手の付けられない血気盛んな男だと評されていました。
しかしただガラが悪いだけじゃなく、いったん戦に出ると恐れを知らずに敵に立ち向かい武功を挙げていくのです。
やがて利家は信長の計らいで従姉妹のまつと結婚することとなります。そしてすぐに子供が生まれます。
ところがこんな幸先のいい時に利家は事件を起こしてしまいます。
ある時、利家がまつに結婚記念としてあげた笄とよばれる髪飾りを信長の側近である十阿弥という小坊主が盗んでしまうのです。
犯人はまるわかりだったので利家も直々に信長に訴えますが、信長は無罪だとします。
これに怒った利家は信長の目の前で十阿弥を斬殺してしまうのです。
これに怒った信長はその場で利家を手討ちにしようとしますが、今までずっと面倒を見てくれた柴田勝家が仲裁し、利家は追放処分となり出仕を禁じられました。
翌年、桶狭間の戦いにこっそりと参加していた利家は敵将の首を挙げる活躍をしますが、信長はそれでも利家を許しません。
その明くる年、信長は美濃の斎藤氏との戦いを本格的に始めるのですが、利家はその戦いにもこっそり参加。
斎藤軍の猛将・足立六兵衛を討ち取り、今度こそ信長に許されて復帰を果たすのです。
利家は信長の命令で兄達を差し置いて前田家の家督を相続し、尾張荒子城主となります。
そして戦では主に伊勢長島一向一揆や加賀一向一揆の鎮圧で活躍します。
長篠の戦いにも鉄砲隊の指揮官として参戦していることがわかっています。
後には叔父貴と慕う柴田勝家の与力(対等な立場だが事実上部下になる)として越後の上杉景勝と戦うようになります。
間もなく長男の利長が成人しようかというというときに、本能寺にて信長が明智光秀の謀反で誅されたとの知らせが入ります。
勝家と別れ秀吉の元へ
勝家が上杉軍との戦いに苦戦している間、羽柴秀吉が中国から戻り光秀を討ち果たしてします。
本来なら秀吉ら重臣達は本来一丸となって織田家を盛り立てるはずでしたが、秀吉は勝家らを無視し独断で信長の葬儀を執り行います。(喪主は秀吉の養子で信長の四男・秀勝)
この行動に勝家は当然激怒し、両者は対立するようになります。
利家は秀吉と勝家の両方に娘を養子に出していましたが、悩んだ末に勝家に属して賤ケ岳の戦いに参戦します。
しかし一番大事な時に利家は無断で撤退してしまうのです。
間もなく勝家は敗走、途中居城に帰る際にどうしても利家の城を通ることになりますが、勝家は何も言わずに利家に出迎えるように言い、養女を利家に返しこれまでの助力を感謝します。
勝家が去って間もなく、今度は秀吉が利家の城に入ります。
そこで秀吉は利家に対し「勝家討伐に参加してくれ」と頼みます。
利家にとっては辛い選択でしたが、大勢が決した今もはや勝家について家を滅ぼすのは愚かでしかない。
利家はこうして秀吉と行動を共にすることを決めます。
秀吉にとっても、自分のライバルを潰すために無駄な時間を費やすことは得策ではありません。
光秀や勝家のようにその存在が大きすぎた場合は別として、丹羽長秀や池田恒興、堀秀政や稲葉一鉄といった比較的早くから秀吉に従順だった人達には極力を立場を保証して味方に引き込んでいました。
利家も親友であるし1人くらいは腹を割って話せる人物が欲しかった。
だからこそ利家を倒さず味方に収めたかったのが秀吉の本音でしょう。
第二の主君・豊臣秀吉
こうして無二の親友であった秀吉に頭を下げた利家は、引き続き北陸の要として活躍することとなります。
当時秀吉はまだ同僚であった織田家臣のライバルを完全には制圧しきれていませんでした。
特に北陸に割拠している佐々成政は上杉景勝とも近く反秀吉・親徳川という立場であったため、秀吉からすれば非常に怖い存在だったのです。
小牧長久手の戦いで秀吉・家康らは直接的には尾張や三河といった東海地方で戦っていましたが、これに乗じて成政が羽柴領に進攻しようとしていました。
利家はこれを討伐する役目を担っていました。
利家は息子の利長や甥である慶次郎利益らを率いて成政に勝利し、成政は秀吉に降伏。
この功績で利家は秀吉から加賀などに83万石の領地をもらい、これが加賀百万石と言われる前田家の繁栄の基礎となります。
その後も北陸方面の重鎮として利家は存在し、小田原征伐の際には上杉景勝・真田昌幸らを率いて北陸道から別動隊を率いて北条方の城を次々に攻略。
征伐の終盤、奥羽の伊達政宗が降伏した時も接待をしたのは利家です。
天下統一が達成されると、利家は領国の経営をほぼ息子の利長に任せて自分は京や大坂にて五大老の1人として権威を振るうこととなります。
本来石高や官位でいえば他のメンバーに比べれば低い立ち場だったのですが、のちに秀吉は利家の官位を引き上げて徳川家康に次ぐナンバー2の立場を確保しています。
秀吉とは晩年まで時折個人的に会っては世間話をしたり将棋をしたりしていたようです。
利家はこの頃に体調不良を訴えて隠居したいと秀吉に願い出ていますが、許されませんでした。
秀吉に続き他界
秀吉の遺言で、利家は後を継いだ豊臣秀頼の守役として大坂城に残ることを命じられています。
まだ秀頼が幼かったため、秀吉は五大老らによる合議制によって秀頼を支えてくれることを期待しましたが、当時の日本はヨーロッパの侵略の危機にも瀕しており合議制などという緩いやり方ではまた戦国時代に逆戻りする恐れがありました。
これに対し最初に行動したのが徳川家康です。
家康は伊達政宗や加藤清正、福島正則、池田輝政ら各地の大名との政略結婚を勝手に取り決めます。
大名同士の婚姻は秀吉の遺言で禁止されていたため、当然利家を筆頭とする五大老らはこれに猛反対。
そして伏見城にて政務を取り仕切る家康と、大坂城にて秀頼を後見している利家を旗頭として諸大名が集結する一触即発の事態に陥ります。
利家には自分を慕う加藤清正(家康と政略結婚を取り決めている張本人なのに)や毛利輝元、宇喜多秀家、それに多くの豊臣恩顧の大名が利家の人望と家康の危険性を指摘して味方しています。
一方の家康には伊達政宗や黒田官兵衛・長政父子、藤堂高虎、蜂須賀家正、山内一豊といった先見の明がある大名がついていました。
しかしこのまま戦が起こったら応仁の乱と同じ結果になってしまう・・・そこで利家と家康は直接面会して戦を止めようと和睦しました。
利家はこの時の事件を筆頭に、各大名の仲裁役を買って出ることが多かったのです。
特に有名な加藤清正ら武断派と石田三成ら文治派の争いは利家がいたからこそ何とか戦に発展しなかったのです。
しかしそれから間もなく利家は病気で亡くなってしまうのです。
これによってタガが外れたように内部争いが再燃し、ついに関ケ原の戦いへと発展し徳川の天下を迎えます。
秀吉にとっての利家の特別な立ち位置
利家は死の際に遺言状を遺しています。
それには豊臣家ではなく織田家への忠義が切々と書かれています。
利家の前田家には昔の縁を頼って多くの旧織田家臣が前田家に仕えています。
例えば、『信長公記』の作者・太田牛一の子孫は代々前田家臣です。
秀吉が利家を重用した理由は、決して単なる友人としての情だったわけではありません。
主君の織田家は信長死後も健在でしたが、最終的に当主となった三法師は幼少、後見人の信雄は秀吉時代に改易されて出家しており不安定な人物でした。
後に三法師は成人し秀信と名乗りますが所詮は若造、諸大名を従わせるような実績もなく元の一大名に落ち着いています。
そんな中で旧織田家を代表する力を持ち且つ年長者だったのは利家くらいでした。
その他の五大老は皆元々は敵ですが、利家は唯一の純粋な秀吉の味方だったのです。
多種多様な魅力を持った利家
利家は五大老として莫大な財産を築いていましたが、若い頃に浪人を経験していたので決して享楽的な生活を好みませんでした。
家計は必ず自らそろばんをもって計算していたので、まつからも「ケチだ」と評されていました。
しかし小田原征伐の際に職を失った旧北条家臣には一銭も惜しまずにお金を貸し、さらに取り立てはするなと家臣に厳しく言いつけてそのままお金をあげてしまったこともあります。
自分が蓄えた財産は、漢籍や茶道といった教養に投資していました。
息子のことは非常に信頼していたであろう利家ですが、彼は戦のことに関しては絶対に利長に教えていませんでした。
ある日利長と同世代の加藤清正がそのことを聞いて非常にびっくりしたという話があります。
別の場所では、利家は「戦は人に教えてもらって覚えるものじゃなく、自分で実戦に出てから学ぶものだ」と言っていました。
この思想は若い頃に信長から教わったものであり、利家が終生大事にしていた思想だそうです。
人徳も利家の魅力でした。
のちに言われる話で、利家は家康に比べると政治力は劣るが人徳は家康は足元にも及ばないと評されていました。
秀吉の時代、利家はキリシタンで信仰を捨てなかった高山右近が改易されると彼を召し抱えます。
右近らはこれによって加賀の町の発展に貢献することとなるのです。
石川県では現在も利家ゆかりのキリシタンにまつわる逸話が残されていますが、加賀の発展は利家の寛容な心とキリシタン達によって生まれたものだったのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
利家は利を取るごとに多くのことを学んでいき、豊臣政権随一のアニキになりました。
利家の人気は決して武勇や人徳ばかりでなく、多くの魅力を持ったその器の広さにあるのです。
さすがに利家を一から扱うドラマはもうないかもしれませんが、彼がこれからどのように掘り下げられるのかはこれからも見ていく価値はありそうですね。