日本の歴史の特徴を他国と比較した時、最も端的に特徴として指すことができるキーワードは「天皇」と「武士」だと思います。しかし上記2つのイメージは、ほぼ江戸時代や明治維新による社会体制と教育・思想学よってできたものでしょう。では武士が台頭する以前はどんな政治体制だったのかというと、天皇を頂点に周囲の貴族がそれを補佐するものでした。武士は当時未だ貴族の護衛に過ぎなかった時代です。そんな時期の政治のトップは、藤原氏でした。藤原氏の繁栄は実に大化の改新から始まり、現代にいたるまで数多くの氏姓が藤原氏の後裔を名乗っています。
その中でも貴族として最も繁栄を謳歌したのは、平安時代後期の藤原道長です。藤原氏の栄華を最も物語っているのは彼の存在でしょう。道長の時代は絶頂期にあたると同時に転換期でもありました。道長が目指したのはどのような世だったのでしょうか?
今回は、貴族藤原氏の栄光を完成させた藤原道長の生涯と、彼が詠んだ歌について見ていきましょう。
・道長の概要
名前 藤原道長(ふじわらのみちなが)
家柄 藤原北家九条流、御堂流
生没年 966年~1028年
父 藤原兼家
母 藤原時姫
兄弟 道隆、道綱、道兼、超子(第63代冷泉天皇女御)、詮子(第64代円融天皇女御)、綏子(第67代三条天皇東宮妃)
子 彰子(第66代一条天皇中宮)、頼道(摂政・関白)、頼宗、妍子(第67代三条天皇中宮)、顕信、能信、教通、威子(第68代後一条天皇中宮)、寛子、長家、嬉子(第69代後朱雀天皇東宮妃)、尊子、長信
趣味 和歌、漢詩、仏教(末法思想)
好き 女流文学作家、酒
嫌い 兄弟
持病 心臓疾患、糖尿病
外見 髪が薄い
性格 直情型、権力欲が強い、意外にビビり
966年、藤原道長は藤原兼家の五男として生まれます。兼家は当時、伊尹(これただ)・兼道の三兄弟で朝廷の権力を掌握していました。兼家は兄の道兼を凌ぐ出世スピードでしたが、伊尹が病気で夭折すると兼道が後を継ぎ、兼家を恨んで官職を削ります。しかし兼道も若くして亡くなると今度は兼家が政権を握ることとなります。
兼家は当時の花山天皇(かざんてんのう)を策略を用いて即位2年、19歳で出家させると自分の外孫である一条天皇を即位させます。これによって兼家は右大臣・摂政という官位を手にし、間もなく右大臣を辞して正真正銘の摂政となったことで位人臣を極めます。この時に息子達を公卿の列に加えたのが、道長の官位デビューです。
それからしばらくして天皇が成人すると兼家は関白に就任し、わずか3日で長兄・道隆に譲り隠居します。道隆も関白として一条天皇に娘の定子を入内させ頂点に立ちますが、かねてからの不摂生で病に倒れてしまい、後を継いだ次兄・道兼も7日で亡くなったと言われています。
道長が表舞台に出た時、道隆の遺言でその嫡子・伊周(これちか)が内覧という実質上の最高官職に就いていました。当時の道長は年齢も実力も名声も伊周を上回ってはいましたが、官位が伊周より低かったために関白にはなれませんでした。道長と伊周は政権の座を巡って口論を繰り返し、その取り巻きが死傷する事件、相手の死を願って呪詛をかけるということまでやっています。しかし伊周が女性問題の勘違いから法皇(出家した先代以上の天皇)に向けて矢を放ったことがきっかけで、道長は伊周の評判落としにかかり一気に伊周の勢力を削ぎます。徹底的にいじめられた伊周はショックで亡くなってしまいます。
この間、道長は長女・彰子(しょうし)を一条天皇に入内させ、結果皇子を儲けています。このことで道長は自分の権力が成ったと大いに喜んでいたとされています。それからすぐに一条天皇が病で譲位し、道長の甥である三条天皇が即位します。しかし三条天皇は成人してから即位したので道長に必ずしも従順ではなく、この2人の関係は険悪でした。三条天皇はすでに別の人物から皇后を娶っていましたが、立后の儀式を道長一派は全員ボイコットしてしまいます。間もなく三条天皇は失明寸前の眼病を患ってしまい、道長の圧力に負けて一条天皇の子である後一条天皇に譲位します。
この後一条天皇が即位した年、道長はようやく摂政に任じられます。しかし僅か1年でこれを辞職し、息子・頼通(よりみち)に家督を譲ってしまいます。後一条天皇が成人すると、三女・威子(いし)を入内させてさらなる外戚権力を求めます。道長は合計3代に渡って天皇の外祖父で居続けたのです。晩年は病がひどく死後も成仏したいという願いから仏教に凝り、臨終の際も僧侶に経を読ませ自分も口ずさみながら死去したと言われています。
彼が書いた日記『御堂関白記』は、2015年に世界記録遺産に登録されました。当時の貴族の生活等を知ることができる一級史料です。
・摂関政治って何?
道長に限らず、この藤原北家が行った政治を摂関政治と呼びます。摂関とは天皇を補佐した摂政・関白を指しますが、厳密にいうと摂政は「天皇が幼い時に政治を掌握する天皇代理ともいうべき首級宰相」、関白は「天皇が成人した後に置く補佐役」であり、摂政の方が権限が強いです。
元々の始まりは道長から遡って5代目、藤原良房が摂政とされたことから始まります。当時、天皇家は幼い子や病弱、または無能ばかりでとてもじゃありませんが親政で政治を明るく!!なんてことは期待できませんでした。となると、かつての聖徳太子と推古天皇のように皇族や親子で助け合い、ということもできません。そこで苦肉の策として皇族以外から「摂政」という最高級の大臣を任命しようということになっていきます。特にこの時の天皇は幼かったので補佐するといったものでは足りず、ほとんど天皇代理という立場でした。これによって、「摂政」という官位の強大さが浮き彫りになっていきます。
一方、「関白」が最初に出てくるのは良房の息子である基経の代からです。基経が権力を継いだ当時、光考天皇という天皇が即位します。彼は即位当時すでに55歳、それもそのはず。彼は皇統として傍系で終わるはずの人間でしたが、基経の尽力で天皇となることができました。当時嫡流が子供ばかりだったのが幸いしたのでしょう。しかしこの天皇も決して政治がうまいわけではありませんでした。そこで年寄りだが補佐役が必要ということで、新たに「関白」という役職を基経に授けます。
ところで、摂政・関白自体は名誉職であり、実質的な権力、つまり実際に政治を動かしたり行政機構に命令を出したりするような権限はありません。ではなぜここまで強い権力を持つことができたのかというと、藤原北家と天皇の関係にあります。
藤原北家は代々天皇家と婚姻を結んでいました。具体的に言うと、自分の娘を天皇に入内させ、その子=外孫が生まれたらその後見人として強力な発言権を持つのです。当時は妻問婚(つまどいこん)といって男が女の部屋に行って関係を持ち、生まれた子は母系が育てるという習慣がありました。つまり、女は天皇に嫁いだといっても事実上実家にいることがあるのです。生まれた皇子は母系の藤原北家で育てられるので、あちこちフラフラしている父・天皇よりも当然ずっと世話してくれる母の家族と親しい関係を築くのです。藤原氏はこの方法を実に170年も続け、気に入らない天皇が現れたら出家させて自分の血縁者(決まって幼子)を即位させるという手法をとっていました。そしてその幼子が成人したらまたもや理由をつけたりなんやらで退位・出家(殺害は絶対にしません!)させてまた新しい幼子を・・・ということを繰り返していました。
というわけで、実権がある摂関政治を行った良房~頼通時代までの天皇の外戚状況を調べてみました。
(数字は何代目の天皇か、()内は左記の人物が摂関となった場合の官位、右端は道長から数えた藤原氏の続柄)
60.醍醐天皇
養母 藤原温子——外祖父 藤原基経(摂政・関白) 高祖父
61.朱雀天皇
母 藤原穏子——外祖父 藤原基経(摂政・関白) 高祖父
62村上天皇(朱雀天皇の同母弟)
(同上)
63.冷泉天皇
母 藤原安子——外祖父 藤原師輔(兄が関白) 祖父
64.円融天皇(冷泉天皇の同母弟)
(同上)
65.花山天皇
母 藤原懐子——外祖父 藤原伊尹(摂政) 伯父
66.一条天皇
母 藤原詮子——外祖父 藤原兼家(摂政・関白) 父
67.三条天皇
母 藤原超子—–外祖父 藤原兼家(摂政・関白) 父
68.後一条天皇
母 藤原彰子——外祖父 藤原道長(摂政) 本人
69.後朱雀天皇(後一条天皇の同母弟)
(同上)
70.後冷泉天皇
母 藤原嬉子——外祖父 藤原道長(摂政) 本人
いかがでしょうか?合計10人もの天皇が藤原氏の外戚に利用されていたのですね。そしてその中でも道長がどうしてここまで繁栄できたのかがよくわかりますね。要するに、摂政・関白というのはこうしたコネクションありきの権力だったのです。ではこのコネクションがなくなってしまったらどうなるのでしょうか?
道長の次である頼通の代になると、藤原北家と直接的な血縁関係がない天皇が現れます。そのうえ、既に頼通の時代からいわゆる摂関家と呼ばれる藤原北家の中心となる家が摂関の座を巡ってお家騒動を起こしてしまいます。頼通の時代に即位した後三条天皇、白河天皇は摂関家とは直接の血縁関係はありません。そのため彼らは再び皇族を頼るようになります。白河天皇は摂関家とは仲が良かったのですが、摂関家のお家騒動に介入してこれを鎮めたことで、摂関家は白河天皇に頭が上がらなくなります。こうして、天皇の権力を押さえようとした摂関政治は、天皇によって思いがけず実態をなくしてしまうのです。
以後は院政と呼ばれる上皇や法皇が現役の天皇を操る時代へと移り、そして摂関政治の頃はただ中央の貴族のみが権力を行使していたのに対し、荘園整理などで武士が地方に送られて力をつけ、やがて武家政権の時代がやってくるのです。
・「この世をば我が世とぞ思う~」の歌の意味
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
訳:この世は自分のためにあるようなものだ。あの空の満月も欠けることがないように、何も足りないものはない。
道長といえば、この歌が最も有名かと思われます。1018年、後一条天皇が成人して道長は三女・威子を彼の中宮としました。そのお祝いに道長は居並ぶ公卿を招いて私邸にて大宴会を開きました。時に道長は52歳。人間五十年ではありませんが、既に老境を過ぎた道長は後継者も定めており、端から見たらその地位は死ぬまで安泰です。この時までに道長は一条天皇、三条天皇、後一条天皇の3人に娘を嫁がせ、外戚として権力を握り続けました。そして今邪魔者はほぼいなくなり、まさに当時の記録で「今は道長の天下である」と評されたような一時代を築きました。
この歌には道長のそんな全てを手にしたばかりの権力の誇示を物語っています。これには遠縁の藤原実資(さねすけ)も参加していました。実資は本来の藤原北家の嫡流ですが、現在は道長の御堂流に押されていました。彼自身は筋を通す性格で、決して道長に平身低頭というわけではありませんでした。そのため、道長も決して気に入っていたわけではありません。道長は実資に返歌を要求します。しかし実資はこれを拒否し、代わって周りの公卿達が立て続けに道長(威子)を褒めそやす歌を送ります。
この逸話は『御堂関白記』にはなく、実資が記した日記『小右記(しょうゆうき、これも一級史料として有名)』に記してあります。学者肌だった実資はひたすらこの事を淡々と記録していました。
栄華を極めた道長ですが、ここからおよそ10年間は体調を崩してしまいひたすら死を恐れていました。道長が死ぬと、藤原北家も政争によって徐々に実権を失ってしまいます。絶頂期とは衰退の始まりでもあります。栄枯盛衰、誠に永遠に栄えるものというのはありませんね。
・まとめ
いかがでしたでしょうか?平安時代は武士の時代と違い、政権内での陰湿な政権争いがクローズアップされる時代です。華やかな道長の栄光の裏には、地方に飛ばされたりして不遇を託った人もいます。例えば、天皇に嫁いだ娘達も子を産まねばならないという凄まじいストレスを抱えていたことでしょう。多くの子が道長よりも先に亡くなってしまったこともあり、晩年の道長はもしかしたら権力の頂点という立場ゆえに孤独と後悔があったのではないでしょうか?いや、彼の行いを見ていると心の優しい人とも思えませんが・・・・。