源氏と平氏の間で行われた源平合戦。
この合戦で源氏を勝利に導き、その名を天下に知らしめたのが源義経です。
義経は戦の才能に優れた天才肌の人物と言われ、平氏との戦いでは連戦連勝をおさめます。
しかし、平氏を討伐したことで民衆や朝廷から注目を集めることになってしまった義経は、やがて兄・頼朝と不仲になり、奥州で悲しい最期を迎えることになります。
平氏を討伐した英雄から悲劇のヒーローになった義経。
今回は、義経の戦の功績と数々の伝説について紹介していきます。
源義経の経歴を簡単に解説
名前 | 源義経(みなもとのよしつね) |
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別名 | 牛若丸、遮那王 |
官職 | 検非違使、伊予守 |
父 | 源義朝 |
母 | 常盤御前 |
性格 | やや高飛車、高貴、純粋、協調性がない |
義経は源氏の棟梁・源義朝と絶世の美女と言われたの常盤御前の間に九男として生まれます。
しかし、義経が2歳の時に父が平治の乱で戦死すると、数多くいた兄弟も離れ離れになりました。
この時、義経は2人の兄と共に出家し僧となることを約束されますが、のちに母が再婚したことで鞍馬寺に移ると、僧となることを拒否して奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。
そして1180年に頼朝が伊豆で挙兵すると義経は佐藤兄弟らの従者(1人の説もある)を連れて頼朝の元へ駆け付けます。
当初は立場の低い無名な存在でしたが、都を荒らした木曾義仲討伐、そして一の谷の戦いによって、都でも名を知られる存在になります。
この頃、義経は京に残って治安維持に努めるのですが、後白河法皇が義経に接近し官職を独自に与えるなど、徐々に頼朝から引き剥がすようなことを行い始めています。
後白河法皇との関わりもあってか、平家追討軍から外されていた義経ですが、苦戦が報告されると再び追討軍に加わります。
そして壇ノ浦まで平氏を追い詰めると、戦を有利に運んで平家を滅ぼすという功績を挙げます。
ところが義経はこの頃から独自の勢力を築こうとしていた節があり、それを意図したであろう後白河法皇に乗せられる形になります。
頼朝はこうなると義経をほおっておくわけにはいきません。
頼朝は最後のチャンスを与え、かねてから反抗的だった叔父の行家討伐を義経に命じます。
これに対して義経が、憔悴しきった姿で「自分は病です」といってこれを拒否すると、頼朝は義経が反逆したと判断。
ついに義経討伐を決定します。
義経は後白河法皇に頼んで頼朝追討の宣旨を得ますが、間もなく法皇は主張を翻し頼朝の肩を持ち義経討伐の宣旨を出します。
これによって義経は京都を離れざるを得なくなり、幾多の逃避行を経て平泉まで落ち延びます。
平泉では藤原秀衡が義経を匿いましたが、秀衡がなくなると息子の泰衡は義経を裏切って攻め滅してしまいます。
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戦いで抜群の働き!でも、三種の神器を取り返せず・・
頼朝の弟とはいえ、関東武士の中では新入りでよそ者に過ぎなかった義経は、数々の戦で戦功を挙げ、一気に名を馳せることになります。
義経は木曾義仲討伐で表立ってデビュー。
この時はまださほど有名な存在ではありませんでしたが、続く平家討伐になっていよいよ本格的に頭角を表します。
奇襲を得意とした義経は、一の谷の戦いで精鋭を率いて鵯越(ひよどりごえ)という崖から奇襲をかけて平家を大混乱に陥れたとされています。
※『吾妻鏡』では義経が大軍を率いて平家を蹴散らしたという記述がありますが、どうも奇襲をしたという記述はないようです。
以後、平家討伐軍は義経の四国遠征軍と範頼の九州遠征軍に分かれ、続く屋島の戦いでは扇の的で有名な那須与一のおかげで士気を挙げることに成功。
再び逆転勝利を飾ることとなります。
平家は京を追い出されてからは中四国九州を拠点に行動していましたが、屋島の敗戦で四国を失い、別動隊の範頼軍によって九州を失うことになった平家は関門海峡にある彦島に追い込まれます。
そして1185年、義経が独自に味方に引き込んだ熊野水軍とともに壇ノ浦にて開戦。
最初は潮の向きが不利だったこともあり、義経は船の上にて平家の武士に取り囲まれますが、船から船へと次々に飛び移り、この危機を脱します。
そして潮が変わると戦況は一変。
義経は一気に攻勢に移ると、艘飛びにてこれを押しのけ平家を追い詰めます。
そして平家は安徳天皇を巻き込んで海の中へ、平家はこうして勢力を落としていくのです。
義経の功績は確かに大きく、平家打倒という自分の夢を果たすことには成功しました。
しかし最重要任務である安徳天皇が持っていた三種の神器を取り返すことはかなわず、草薙剣を瀬戸内海の藻屑にしてしまいました。
頼朝はこれに激怒し、関東武士団も「義経調子にのってんじゃねえよ!!」となってしまいます。
義経にまつわる伝説
義経の伝説は戦そのものの結果だけではありません。
義経が戦の達人になれた理由は、幼少期に鞍馬寺で天狗に剣術を習ったからだという伝説があります。
鞍馬寺の天狗伝説
ある日、天狗が鞍馬寺の僧達の前に現れると、僧達は義経だけを残して去ってしまいます。
義経は自分が敗者の子であることからみんなに馬鹿にされるといいましたが、天狗はこれを聞いて義経に剣術を教えました。
そして義経は寺の中でも一番の実力を持つようになったのです。
頼朝との黄瀬川での再会
義経と頼朝の黄瀬川の対面も有名です。
義経と頼朝はこれまで一度も出会ったことはありませんが、この時に初めて対面を果たしお互い涙ながらに平家打倒を誓ったと言われています。
現在も黄瀬川には対面石という2人が座ったとされる石があり、観光地となっています。
腰越状
そして、平家討伐後に頼朝から謀反を疑われた義経は頼朝に自分の潔白を訴えるために大江広元(毛利元就の祖先)に腰越の関で頼朝に向けて手紙を渡します。
これを腰越状といい、義経の悲痛な叫びが感じ取れます。
以下、wikipediaから意訳文を抜粋しました。
左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。
私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。
ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。
つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと言われています。
ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。
こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。
私の宿運が尽きたのでしょうか。
はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。
引用:wikipedia
しかし、面会を許されなかったとすること自体も嘘ではないかという説があり、ここにも義経伝説を誇張する要因が見えてきます。
義経と静御前
義経といえばその美貌と女性の扱いのうまさからロマンスが生まれています。
その代表が静御前です。
義経と静は本来身分が違いすぎて正式な夫婦にはなれません。
しかし義経は静をこよなく愛し、子供ができています。
義経が逃走した際にも付き従っていましたが、吉野で頼朝方に見つかってしまいます。
静はのちに頼朝・政子の前で舞を披露することになりますが、この時に義経を慕う歌を歌ったために頼朝が激怒し静を殺そうとします。
当時、鎌倉武士の間でも義経への仕打ちはひどいという風評はあったため、迂闊に人心を刺激するこの行動は許されなかったのです。
しかしそこに政子が「昔は自分もあんな風にあなたを恋い慕ったものです。それを殺そうというのなら私を殺すのと同じ、まず私を殺してから彼女を殺しなさい。」といって武士達を退けます。
それからすぐに静は義経の男児を産みますが、後顧の憂いを絶つといってすぐに頼朝によって由比ヶ浜に捨てられてしまいます。
政子は静に多くの贈り物を与えてこれを労わりました。
義経は天狗といわれた後白河法皇に対していとも簡単に心を許すあたり、貴公子(しかも寺暮らしで世間知らず)ゆえの危うい純粋さがありました。
それが数々の人の人生を揺るがす影響を与え、今日伝わる伝説をつくったのだといえるでしょう。
平泉での最期の様子
義経は京にいた頃から反頼朝の動きを見せていました。
しかし武士の間での賛同者は決して多くなく、ゆえに京から逃げるしかなかったのです。
平泉に着いた後も比叡山の僧と連絡を取ったり、出羽にて頼朝軍と戦をしたりとわりに積極的に行動しています。
義経をそもそも頼朝に送った秀衡は反頼朝という意思を一貫していましたが、間もなく秀衡が亡くなると子の泰衡が後を継ぎます。
泰衡も遺言に従って最初は義経に協力していましたが、奥州藤原氏は元から兄弟間に矛盾を抱えていました。
さらにそこに頼朝が軍事的圧力を執拗にかけます。
義経は危機を感じていたのか、奥州から脱出しようとしていました。
しかし先手を打ったのは泰衡、義経の館がある衣川を襲撃します。
義経は勝ち目がないことを悟ると堂にこもり、まず妻子を殺して自分も自害しました。
その首は美酒に浸されて43日間かけて鎌倉に送られましたが、判別不可能だったと言われています。
そのため下記のような伝説が生まれるのです。
義経の生存説(チンギスハン説)
この説の由来は主に江戸時代、義経一行はさらに北上し秋田や青森にもその足跡がたくさん残されています。
さらに北海道にもその足跡があるとされ、義経の青年時代の伝説と共に実在しているものだと考えられていました。
ややぶっ飛んだ説として、北海道でアイヌの王になった、モンゴルに渡りチンギスハンとなったとする説が有名ですが、これらは学術的には完全に否定されています。
義経に関する話は主従を含めてまだまだたくさんあるようですが、その伝説の広がりは現代にいたるまで留まるところを知りません。
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