日本史で一番最初に習う人物は?と聞かれたら、ほとんどの人は卑弥呼だと答えるでしょう。

実はこれ、ビミョーに違うんですが卑弥呼の知名度はその人より遥かに上回っているので卑弥呼と答えても学校では決してバツにはならないはずです(汗)

 

卑弥呼といえば邪馬台国の女王ですが、この頃の日本は未だ歴史を書物に残すという発想がなくあらゆる事が不確かな時代、そのため体形的に情報を知るには他国の文献を頼らなくてはいけません。

日本のルーツと言われる卑弥呼と邪馬台国の存在は、実に多くの謎に包まれており後のヤマト王権、そして現在の天皇家とどのような関連性があるのかさえもわかっていません。

そのため、卑弥呼と邪馬台国には非実在説さえもあります。

 

日本の歴史が対外的にも確実になっていくのは紀元5世紀くらいからです。

果たして、卑弥呼は本当に実在した人物だったのでしょうか?

そして邪馬台国はどこにあったのでしょうか?

 

今回は日本史の、卑弥呼と邪馬台国について実在性とその墓の場所について見てみましょう。

 

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卑弥呼について

 

【名前】:卑弥呼(ひみこ)

【職業】:邪馬台国の女王(邪馬台国の所在地は不明)

【活躍した時代】:弥生時代(中国の後漢・三国時代にあたる)

【官位】:親魏倭王(しんぎわおう)

【親戚】:壱与(いよ)、弟が1人

 

卑弥呼がどんな人物だったかについてお話しする前に、この時期の日本について簡単に説明しておきましょう。

この時代の日本について最もリアルタイムな書き方をしているのは中国の『後漢書』と『三国志』です。

 

邪馬台国について書かれている最も信憑性の高い出典元は魏志倭人伝ですね。

魏志倭人伝というのは『三国志』の魏書・蜀書・呉書のうち魏書の一番最後の巻のことを言います。

つまり、邪馬台国と卑弥呼は日本人の大好きな三国志の時代の人だったのです。

 

卑弥呼が歴史に現れる前の日本は中国から倭(わ)と呼ばれており、小さな集落のような国がいくつも並立している状態でした。

ちなみに、倭とは矮小・卑小という意味で中国からはさほど重くは見られていなかったようです・・・・・・。

 

倭国は元々男の王が国を7~80年ほど収めていましたが、やがて大乱が起こって国に王がいない状態となりました。

そこで諸豪族は1人の女を王として国を治めさせることにするのですが、それが卑弥呼です。

 

卑弥呼は、鬼道(おそらくは巫女が祈祷を行うシャーマンのような行動)を行って衆を惑わし、年齢はすでにかなり高齢で、弟が彼女を補佐して国を統治していました。

 

卑弥呼が王となってからは直接卑弥呼の姿を見た者はほとんどおらず、奴婢1000人を召し抱えていたそうです。

しかし、飲食を給し、伝次を取り次いでいたのは1人の男性で、彼女が住む宮殿や楼観、城柵は厳めしく建てられ、常に兵士が武器を持って護衛していました。

 

通説では元々卑弥呼は隣国との戦に備えて中国の支持を受けるために遼東の公孫淵の協力を仰ごうとしますが、ちょうど魏によって滅ぼされたので慌てて魏に朝貢しました。

魏は卑弥呼の行動を魏に対する忠義だと褒めたたえ、親魏倭王という官位を卑弥呼に授けます。

 

それ以後、卑弥呼は度々魏に使いを送っており、魏も倭国に対して使者を直接倭国に派遣して金銀財宝や鏡、それに布帛といった下賜品を授けています。

卑弥呼と隣国の狗奴国(くなこく)の男王は元から関係が悪く度々戦になっていましたが、魏は張政という人物を邪馬台国に送って戦果を報告させたりしています。

一説に狗奴国は孫権の呉と結んでいたとされており、倭国の争いは一方で魏と呉の威嚇合戦だったとも見て取れます。

 

ところで、『古事記』や『日本書紀』では卑弥呼の名は直接書かれていません。

日本側の文献では当時の有力者がヤマト王権のどの天皇の時代の人物にあたるのかという推測でしか記されていないため、研究がより困難になっているのです。

最も、この二書に関しては恣意的な記述が多いとも言われており意図的に藤原氏に不都合な事実を消し去ったという説もありますが・・・・・・。

 

 

卑弥呼の死因とされる通説

魏志倭人伝では、卑弥呼の具体的な死因は記されていません。

張政が邪馬台国にやってきたのは西暦247年とされていますので、おそらくはそれ以降と思われますが確かなことは何もわかっていません。

 

しかし一説には卑弥呼は先述した狗奴国との戦で殺された、もしくはある天文学者の説によるとちょうど247年3月24日夕方と248年9月5日朝に日食が起こっており、これによって卑弥呼は天のお告げであるとして殺された、とする説もあります。

ちなみにこれらの異説に関しては魏志倭人伝の文章の読み方の解釈の違いから生まれた説であり、「以」という漢字をいかに読むかによって解釈が分かれています。

 

現代では「もって(以て、以って)」と送り仮名をつけて読みますが、要するに「~が起こった、だから」という結論を述べたり、「~によって」と原因や方法・手段を説明する時に使います。

 

でも古代では「すでに」とも読みます。

原文に則していうと、この漢字が使われているのは「卑弥呼が死んだ〇〇〇、大いに卑弥呼の墓を作り・・・」の〇〇〇の部分にあたります。

 

これによって卑弥呼の死因の解釈が自然死が殺害かに分かれているのです。

現在では素直に自然死とするのが一般的なようですが、ちょうど内乱の真っただ中だったので殺害も決してゼロではないといえるのが面白いところです。

 

先述の日食についても、神話に当てはめると日食は人の死を意味するとかややオカルトチックな話も出てきますが、何とでも解釈できるのが歴史書の難しいところでもあります。

 

卑弥呼の墓だとされる古墳はどこ?

卑弥呼の墓は直径100歩余りにも及ぶ巨大なものであり、奴婢100人余りが殉葬されました。

さて、この卑弥呼の墓が現在見つかっているどの古墳にあたるのかというのが邪馬台国の所在地の論争の重要なポイントになっています。

 

有名な説は畿内説と九州説です。

畿内説の根拠は、奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓であるとする説、そして箸墓古墳を含む纏向遺跡群がその規模の大きさや出土品の産地の広さから推測して倭国の都にふさわしい規模だったことです。

箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという説は古くから言われている話で、特に近年では箸墓古墳の地質が卑弥呼の死の年代とされる西暦240~246年代頃のものであるとしてさらにその説が注目されています。

 

一方、九州説であるという根拠としては福岡県糸島市の平原(ひらばる)遺跡、福岡県京都郡の石塚山遺跡が卑弥呼の墓ではないかと言われています。

 

特に石塚山古墳に関しては墳丘の規模からしてちょうど卑弥呼の時代と一致するとされており、後の古墳時代のスタートの特徴である前方後円墳であり箸墓古墳同様卑弥呼の墓としてふさわしい規模を持っていると考えられています。

他には四国の徳島県にも卑弥呼の墓であるとするものがいくつかあると聞いたことがありますが、現在に至るまで卑弥呼がどこに葬られたのかは一切わかっていません。

 

 

邪馬台国はどこにあったのか?(予想)

邪馬台国はどこにあったのか?

日本人なら多くの人が気になっている日本史最大の謎の1つですね。

 

これに関しては学者から一般人に至るまで諸説入り乱れており、どれも部分的に正確ですが決定打を欠くものであり現在までいわゆる定説と言われる答えは見つかっていません。

 

この研究は江戸時代からず~~~っと続けられていますが、その最初は新井白石です。

彼は長年自分の書籍にて「邪馬台国は大和国である」と結論づけていましたが、晩年になって「やっぱり筑後国である」と持論を翻しています。

 

もう少し時代が下った本居宣長は「あくまで邪馬台国は畿内にあるが、魏が使者を送ったのは九州の熊襲(くまそ)が僭称したニセモノである」として、当時「邪馬台国」に匹敵する大国が九州にもあり、それらが「畿内の邪馬台国である」と偽って魏を交渉を続けたとしています。

 

このニセモノ説は近現代にいたるまで発展し、九州に畿内に匹敵する王朝があったが次第に衰退し畿内のヤマト王権に吸収され、そして現在の日本天皇家ができたとする説が数十年前まで提唱されたこともありました。

 

これを東遷説といい、結末については九州にあった邪馬台国にあたる国が畿内へ遷都した、九州の邪馬台国が畿内の大国を滅ぼしてヤマト王権を形作った、元々九州と畿内にそれぞれ都があったが長い年月をかけて畿内に政権を遷していった、等様々な解釈があります。

 

ところで、魏志倭人伝についてもう一度よく読んでみると、卑弥呼について書かれる前に倭人の生活習慣について記されています。

それによれば、倭人は素潜りで魚や蛤を捕ったり、気候は温暖で冬でも夏でも生菜を食べた、倭人が生活している地域は会稽郡東冶県(現在の福建省福州市の一部)の東にある等、素直に地理を追いかけると海のど真ん中に出てしまいますが、おおよそ畿内よりも温暖な南国の生活習慣に近い印象を受けます。

 

もっというと沖縄そのものの気候だといっても十分通じるかと思います。

しかし沖縄だと呉の領土である会稽郡からどうやって魏の使者がはるばる北の海から渡ったのかというのが疑問だし、そもそも当時沖縄がそこまで発展した地域だったとは考えられません。

よって残念ながら沖縄説は却下です(汗)。

 

そもそも、この議論が何百年も迷走している原因としては日本天皇家のルーツ=4、5世紀のヤマト王権=3世紀の邪馬台国がその前身、というやや無理やりな希望的観測から起こっています。

先述のように、『古事記』『日本書紀』には卑弥呼にあたる人物が誰であるか、卑弥呼時代の戦争については一切記されておらず編者側からは消したい、または消された存在であるという可能性も考えられます。

 

そうなると、畿内にあったはずのヤマト王権にとって邪馬台国=敵であり、それが畿内地域にヤマト王権またはその前身となる政権と並立していたとは考えにくく、やはり魏が帯方郡を含めた朝鮮半島から一番スムーズに進むことができる九州地方に邪馬台国があったと考えるのが最も説得力があるでしょう。

 

最も、魏志倭人伝の記述は必ずしも正確ではないので北九州にあったとは断定づけられませんが、間違いなくそれはヤマト王権の元となる畿内の国とは別物であり、ヤマト王権の侵攻によって滅んでしまったのかも知れません。

 

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

邪馬台国以降の時代の中国、朝鮮の歴史書にも倭について現れますが、それは邪馬台国とどのような関連があるのかはさっぱりわかっていません。

しかし卑弥呼は魏にとってはとりあえず朝貢国として受け入れた国の女王として認知はされていたようで、まさか架空の人物とは言い難いでしょう。

しかし卑弥呼を含む邪馬台国の政権をそのまま日本天皇家のルーツである、と考えるのはいささか早計だと思います。

 

思うに、当時の日本列島は中国から「国」と認められていたかも怪しい地域、つまり統一政権のない戦乱の時代だったのでしょう。

卑弥呼の即位で治まった国の地域はごく狭い範囲で、彼女の死後男の王が即位してすぐ戦乱に逆戻りし女王を再び即位させたことなども、決して安定した平和な時代ではなかったことを示しています。

邪馬台国はおそらく群雄割拠の一角に過ぎない存在だったのでしょう。

 

こう考えると、卑弥呼の墓がどの国のどの地域にあったかを必死に追いかけることは少々的外れな気もしてきますが、日本はどのようにして国が生まれたのかがいまいちはっきりしない国。

そこには何とも言えないロマンがあります。だからこそ多くの人がそのルーツを求めて今日も研究に明け暮れているのです。

 



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