吉田松陰は生涯女性と関係を持つことがなかったと言われています。
しかし、「もしかして恋愛関係だったのでは?」と噂される人物がいます。
それが今回紹介する高須久子です。
松陰と高須久子はどんな関係だったのか?
詳しくみていきましょう。
高須久子は 松陰の恋人?
海外密航を企て失敗した松陰は「野山獄」に投獄されます。
萩では牢が区別されており、士分の身分が入る上牢を「野山獄」、庶民などが入る下牢を「岩倉獄」としていました。
松陰の獄中生活は1年2カ月に及び、この間、618冊もの本を読み、密航事件を振り返った「幽囚録」や「回顧録」も記しています。
後年、晋作もこの獄に繋がれた際に、「先生を遠く慕うて漸く野山獄」と歌を詠んでいます。
先生というのはもちろん松陰のことです。
どんな気持ちで獄中生活を送っていたのか、思い馳せていたのではないでしょうか。
野山獄で出会った高須久子
当時、野山獄に収監されていたのは11人でした。
そのほとんどが様々な理由で世間にいることができず「借牢」という形で軟禁されていました。
期間も決められていないため、気力ない日々を送っていたことでしょう。
そして、その中にいたのが唯一の女性である高須久子です。
久子は武家の未亡人でした。
夫亡き後の寂しさを埋めるため三味線や琴に興じ、芸仲間を屋敷に招き入れ稽古に精を出すほどでした。
その芸仲間が男性だったことでよからぬ疑いをかけられ、世間体を気にした家族によって入牢させられていました。
松陰の講義が評判に
獄中で松陰は囚人たちに、「孟子」の講義を始めます。
しだいに評判となり、部屋に入りきれない者は廊下から立ち聞きするほどでした。
そしていつしか看守までもがそれに参加します。
逆に松陰も、唄が得意な囚人から教えを請うなど、野山獄は教室と化していきます。
松陰の熱心な姿勢と人柄は、人々を引きつけ、獄全体の雰囲気をも変えていったことでしょう。
そして久子もまた、松陰に引きつけられたひとりだったのではないでしょうか。
松陰の気持ちはいかに・・・?
松陰は安政の大獄で捕えられ江戸に送られる際、途中箱根で詠んだ歌があります。(現在、箱根神社にある石碑に刻まれています。)
「箱根山 越すとき汗の 出でやせん 君を思ひて ふき清めてん」
久子は松陰が出獄する際手ぬぐいを贈っており、それに対するお礼の歌と言われています。
松陰も久子に対して特別な感情を持っていたように思えますね。
久子は明治になって野山獄が廃止されたことで出獄します。
松陰などの命を糧に出来上がった明治時代は、久子の目にどう映ったのでしょうか。