伝説ばかりの中国文明の始まりの歴史の中で、始皇帝はおそらく初めて習うまともな記録の残った人物でしょう。

これまでも『始皇帝暗殺』『秦の始皇帝』『キングダム』と、数多くの始皇帝にまつわる創作が作られてきましたが、始皇帝の何がすごいのかを知っている人はどれだけいるでしょうか?

 

始皇帝は『史記』の中で漢王朝の開祖である劉邦を盛り立てるために、とにかく悪い人物、怖い人物として描かれています。

それに始皇帝が建てた秦帝国はほんの10数年で滅んでしまいます。

 

一方、次に建国された漢帝国は紆余曲折を経て400年近く続いたので、むしろ現代中国でも全ての開祖として神格化されています。

その過程で、劉邦らによって滅ぼされた秦は悪者であるべきだと考えられ、始皇帝の悪の面ばかり強調されています。

 

しかし実際に劉邦が行った政治体制は、そのほとんどを秦の方法から踏襲していました。

 

現在も中国史を学ぶと、必ず「今の中国の支配体制は始皇帝から代々受け継がれたものである」と教えられます。

では、始皇帝の何が現代まで受け継がれているのでしょうか?

 

今回は、始皇帝が行い後世まで受け継がれた思想や政策について今一度復習してみましょう!

 

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中国で初めて皇帝となり、統一王朝を作る

島国の日本と違い、中国大陸は太古の昔から無数の部族・民族が雑居し土地によってまるで気候も異なるので、その実中国大陸はぐちゃぐちゃのメルティングポット状態でした。

『史記』で最古の王朝とされている夏・殷・周も、現在の中国大陸のような広大な土地を支配していたわけでなく、本当の支配地はだいたい河南省から河北省くらいのごく限られた土地。

当時は今でいう中国大陸の大半は統一王朝の治世下に入るという考えすらなかったのです。

 

それでも周王朝は自分達の支配が及ばない大多数の地域を功臣や諸侯に任せるという封建制(ほうけんせい)を採用し、祭政一致の緩やかな統治を行っていました。

しかし、その緩やかな支配がやがて親玉である周王朝の権力が弱まったことで春秋戦国時代という長い戦乱を生むこととなります。

 

諸侯は家系を辿れば祖先が兄弟だったり同じ釜の飯を食った功臣同士だったりしますが、当然その時代までには交流が絶えて久しく、末裔である当人達からすればただの邪魔者でしかありません。

おまけに、彼らはその土地の風習・規則にすっかり慣れ親しんでいるので当然他国の風習には従いたくありません。

こうして「俺が一番だ!」と主張する人間が何人も現れたことで、戦乱は500年もの長きに渡って続けられました。

 

そんな中で生まれた始皇帝は、王が乱立する時代の中で旧習を打破するために旧勢力の代表である戦国七雄のうち自国の秦(燕・斉・楚・趙・魏・韓)以外を全て滅ぼしてしまいました。

彼らはそれぞれが王を名乗っており、始皇帝も当時は秦王と名乗っていました。

 

しかし、いざ天下統一が成された紀元前221年、彼は重臣達とある議論をしていました。

「私は未だかつて誰も成し得なかった偉業を成し遂げた。しかし、それなのに今まだ秦王と名乗るのは不自然ではないか。私は今ここに王を越える名号を定め、これを二世、三世・・・・と未来永劫伝えていきたい。何かいいものはないかな?」

 

重臣達はここで「今貴方様は伝説時代の五帝さえも超越する偉業を成し遂げたのです。であれば、その上位である三皇の最上位である泰皇を名乗るべきでしょう。」と進言します。

その他、命令書や一人称等の呼び名を全て改称し、それらは皆臣下の意見に全面的に同意しましたが、秦王は称号だけは彼らの意見に反対し、「その昔の伝説の主君と同じように帝という字も欲しい。そうだ、朕自らは『皇帝』と名乗ることとしよう!」と、自分を『皇帝』と名乗るようになりました。

 

これが、中国の『皇帝』が生まれた瞬間でした。なお、始皇帝というのは後に二世皇帝がその偉業を自分と比較するためにつけた一種の追号です。

 

『王』が各地を治める時代から、『皇帝』が全土の頂点に立つ時代へ。

始皇帝の登場から、中国の歴史は統一王朝の時代へと動き出します。

 

 

度量衡、貨幣、車軸の統一

天下統一とは、具体的にはバラバラだった政治機構の基準を全てある1つの基準に統一してしまうことをいいます。

 

その中でも最たる例は、度量衡の統一です。

度は長さ、量は体積、衡は質量を指します。

これらの単位は全て各国で異なりました。

 

ちょっと専門的になるのでわかりやすく現代の単位で言うと、例えばA国では1mは100cmなのに、B国では1mは85cmという感じです。

こういう些細な違いが、中国大陸ではおそらく史書で確認されていないものも含めてごまんとあったのでしょう。

言葉さえ通じない部族がいても何ら珍しいことではないはずです。

 

こうした誤差があると、ある地域はやたら得をしてある地域ばかり損をするということが発生して混乱します。

勿論始皇帝だって帝王学としてそれくらいの知識はもっていたはずですので皇帝になった瞬間から度量衡の統一を始めたわけではなく、詳しい研究によると秦に近い旧敵国地域からまだ戦争が続いているうちから徐々に秦のやり方に染めていったようです。

 

秦代の資料としてとても有名な「睡虎地秦簡(すいこちしんかん、竹簡)」は、秦の都があった陝西省から遠く離れた湖北省で発見されました。

これによると、湖北省は元は楚の領域でしたが、天下統一が成された紀元前221年の記録の時点で秦特有の呼び方が既に採用されていることがわかりました。

始皇帝の改革は本当に徹底していたことがよくわかります。

 

統一すべき行政規格はまだあります。

それはお金です。

 

当時からお金があったことは当然と言えば当然ですが、始皇帝の時代はまだ紙は普及してないのでお金と言えば硬貨です。

特徴的なのは刀銭と呼ばれる文字通り刀の形をした貨幣です。

 

この貨幣単位も諸侯によってまるで異なりました。

中国大陸全土に、日本円・アメリカドル・人民元・ユーロ・ペソ・ウォン・ルピー・・・・のようにまるで異なるレートの貨幣単位が一度に存在していたのです。

当時の商人達は覚えるべき貨幣単位が多く、まあ何と大変だったことでしょうね(汗)

 

始皇帝はこうした貨幣経済の混乱を未然に防ぐために、秦の規格に統一することを決めました。

そのため、それまで使われていた旧敵国のお金は大半が没収・改鋳されたようです。

 

ところで、読者の皆さんに勘違いしてほしくないのは、当時から現代と同じような貨幣中心の経済が回っていたわけではないという事です。

 

当時一番主流だった税は、何と労役要員である人頭税でした。

そのため、睡虎地秦簡には人頭税の決まりがこれでもかというくらい記されています。

勿論農業社会でもあるため租税も納めていたようですが、その基準は民の身長でした。

 

例えば、「身長何尺何寸以上の人間はこういう労役をしなさい」「身長何尺何寸以上の人間は今月これだけ税を納めなさい」というように、一切合切がお金で支払われる現代と違い、当時は時代が変わればただの鉄くずになるお金よりも生活の糧となる人間や食糧の方がよほど重要だったようです。

 

これらと関連して、馬車に使う車軸の太さも統一されました。

実は車軸は軍事や祭祀儀礼、要人の移動に使うものとしてとても重要なものだったのです。

 

当時の祭祀儀礼は国家予算をはたいて行う超重要な儀式で、そのためだけに今でいう所の省庁があって祭祀用の予算が別建てされていたぐらいですから。

 

 

地方行政の祖・郡県制

封建制は狭い地域をそれぞれの王が緩やかな統治を行うものでした。

しかし、これは諸侯の独自性が強い反面周王朝に従わない諸侯を周王朝が止めることができない、又は他の諸侯が主君である周王朝を盛り立ててくれるとは限らないという欠点があり、それは現実のものとなりました。

 

そこで始皇帝が目指したのはそうした反乱を未然に防ぐ中央集権で、地方を治める長官はあくまで皇帝の代理であり何一つ非派遣者の好きにしてはならないという考えでした。

 

現代の地方の知事や公務員、銀行員を思い浮かべてみてください。

彼らはだいたいの場合国や各組織のトップから定められた任期があり、それが終わると任期満了で別の人間が成り代わりますよね?

 

これはあまりにも在地のスタッフと親しくなりすぎて癒着を行うのを防ぐためです。

いくら長官が中央派遣のエリートでも、その下で実務を行うのはその土地に詳しい在地の人ですよね?

 

いつの時代も賄賂や暗黙の了解で成り立つ政治というのはどこに行ってもありますが、始皇帝は幼少期から人質として暮らしていたという経験からもこうした部分に強く改革の必要性を感じていたのでしょう。

 

始皇帝は天下統一を果たしてから、中国大陸を36の郡(実際はもっと多かったらしいが。後に48郡となる)に分けてそれぞれに郡太守を置き中央集権の基礎としました。

 

とはいえ、実際には郡県制に批判する勢力はとても多かったようです。

最たる例が項羽のような秦に滅ぼされた国の一族です。

郡県制はその性急さも相まって秦帝国崩壊の際にいの一番に崩壊しました。

代わって項羽が考えたのが、周王朝以来の諸侯が封建制によって各国を統治する体制でした。

 

しかし、やっぱりというか項羽に従わない連中が当然現れます。

劉邦もその1人でした。結局、項羽はこうした諸侯の反乱を防ぐことができずに滅んでしまいます。

 

劉邦は項羽のような分国統治がいつまでも続かないことを見抜いていましたが、いきなり始皇帝のように全国を一斉に郡県制にすることはしませんでした。

 

都に近い地域は郡県制を採用するものの、その他の地域には旧戦国の諸侯や功臣、一族を置いて王国として統治させる形を取りました。

 

しかし、この王国も徐々に有名無実化し武帝の時代になるとついには諸侯国は完全に郡県制と実態が変わらなくなり形骸化してしまいます。

これ以後、始皇帝の郡県制は形や名称を幾度となく変えながらも1000年以上に渡って用いられ続け、中華民国成立までその長い命脈を保つこととなるのです。

 

 

不老不死と国土の拡大

中国大陸を制圧したから、はいお終い!!というのはゲームの中だけの話です。

実際はそこから外国との交渉や内務の政治といった地味な実務が山のように待っています。

 

それに、当時は今のように地球儀や世界地図があったわけではないので世界というのがどれだけの物なのかを正確にわかっている人なんで誰もいません。

 

皇帝とは実態のない「天」から任命された「天子」という側面もあったので、自分に逆らう者が1人としていてはならない祭祀上の孤独な人格も備えざるを得ませんでした。

 

始皇帝が皇帝となって最も力を注いだこと、それは政治ではなく不老不死への探求でした。

これまで一体歴史上の何人もの人物が不老不死を望んで死んでいったことでしょうか?

 

始皇帝は天下統一から間もなく、その威信を全国へと知らしめるために天下巡行を計5回行いました。

それは天下の民に自分を知らしめるたけでなく、まだ自分が見たことのない他国の世界を見て不老不死になる方法を探求するためでした。

彼は天下巡行中も政治を決して他人に任せることはなく、自分で毎日決めた量の裁決書を自筆で処理していました。

 

臣下には不老不死の薬を探させ、それでいつまでも結果を出せない人間は一斉に生き埋めにしてしまいました。

他には思想弾圧のために彼が愛した法律以外の本を全て焼き払いました。

これが世にいう焚書坑儒です。

 

物語ではよく儒家だけが葬られたと言われますが、実際は不老不死にかこつけて一儲けしてやろうという道士崩れであったり不老不死の解釈を巡って対立ばかり続けていた役に立たない学者だったりと、単なる思想弾圧よりも祭祀儀礼上の問題もあったようです。

 

祭祀儀礼が重きを成す中華帝国において、皇帝もまた政治家であり学者であり軍人でしたから。

 

さて、認めたくはないけど自分の寿命が近いことを知っていた始皇帝は、その不安から秦帝国を崩壊させるきっかけとなりうる全ての要員を排除しようと思いました。

それが、異民族への遠征です。

 

北は匈奴、南は越南と攻撃を仕掛け続け、天下統一後も決して戦争の手を緩めようとはしませんでした。

後の時代と違い、この頃の中国には異民族との混血など考えもつかないことなので、敵は賊滅するまで戦い続けるのは当然の事でした。

 

当然戦にも祭祀儀礼にも金がかかるので、その出費は勿論民からの税で賄われました。

結果として、秦帝国は始皇帝は5回目の巡行の際に亡くなると、急速に崩壊してしまいました。

 

 

始皇帝のお墓・兵馬俑

1974年(昭和49年)、陝西省のある村から水を汲むために井戸を掘ろうとしました。

すると、何かが鍬にあたった音がして最初は「どうせ壺か何かだろう。」と構わず掘り続けると、それは等身大の人形でした。

 

最初は村人達もその価値がわからず現地の博物館も現地の保護を命じただけで大して何もしませんでしたが、ある時に偶然通りかかった報道記者がそれが秦代の物であると見抜くと、早速共産党の内部組織に連絡しました。

 

すると瞬く間に国家文物局が保護を命じ、考古隊が派遣される大事になってしまったのです。

結果、それは『史記』に記された始皇帝の墓であることが判明し、当時一大ニュースとなったのです。

 

これまで発掘されているのはあくまでその全体の2割程度に過ぎず、現在も調査団によって日々発掘が行われています。

 

兵馬俑の何がすごいのかというと、何百何千と彫られた彫刻の石像は皆1人ずつ顔が異なり、馬と言いそれが全て等身大で描かれていることです。

兵士の顔の形を見ると、それぞれにその人物がどこの出身であったのか等がすぐにわかります。

兵馬俑は皇帝の馬車を囲むように作られた兵団の形をとっていますが、この隊列や兵の鎧、武器などでどのように軍組織が成り立っていたかが読み取れるというのです。

 

さらに、この中には武装した兵士だけでなく、音楽隊や文官、書生、儀礼官、さらには力士隊までもが一堂に会しており、始皇帝の軍がどのような様相であったのかを垣間見ることができるのです。

 

ここから、死後も生前の繁栄をそのまま持っていきたいという始皇帝の遺志を強く感じ取ることができるのです。

ちなみに、始皇帝本人の棺は未だ見つかっていませんが、いつの日か必ず始皇帝本人と会うこともできるでしょう。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

始皇帝1人のために、多くの学者や作家が長い歳月をかけて研究を続けてきました。

それは彼の行いが正しいか間違っているかは別として先人の遺産が現代の我々にどれだけの恩恵を与え続けてきているか、という壮大な人の営みを我々は本能的に知りたいという知的好奇心を持ち続けているからに違いありません。

 

今あなたがこうしている時間にも、決して少なくない人の営みが詰まっているのです。

それは道具であったり文明であったり、はたまた命であったり、我々はその事を絶対に忘れてはいけません。

 

始皇帝は長い歴史の中で、常に悪者として扱われてきました。

しかし、彼無くしてはその後の時代は全く違うものとなっていたに違いありません。

だからこそ、後世の皇帝達も始皇帝の歴史を学びそれを実際の治世に活かしてきたのです。

 

『キングダム』の始皇帝は未だ若年ですが、彼が物語ではどのように変化していくのか、それもまた見どころの1つですね。

 

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