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毛利敬親ってどんな人?「そうせい公」の評価と逸話!!

今回は吉田松陰や桂小五郎、高杉晋作と深い関わりのあった長州藩主毛利敬親についてです。

 

毛利敬親の性格

長州藩の藩主、毛利敬親は「そうせい侯」というあだ名をつけられていました。

その理由は敬親は自分の意見をいう事が少なく、家臣の上申に対して、「よし、そうせい」(そのようにしろ)としか言わなかったからです。

 

良く言えば、家臣を信じて任せる名君。

悪く言えば自分で判断を下すことのできない暗愚。

 

毛利敬親の評価が分かれる理由です。

 

ただ、毛利敬親は幼いころ、「大名という者は家臣に対して好き嫌いをしてはならない。海のように広い心を持たなければならない」と教育を受けたそうです。

この一点を、終生教条のようにして守り続けたほど純真で善人と言えるのかもしれません。

 

ちなみに、毛利敬親は歩行もつらいほどに太っていて、顔は膨れ、おまけに顔面は神経痛で常に歪んでいたと言われています。

 

いい暮らししすぎてたんでしょうね(笑)

 

山内容堂が下した敬親への評価

吉田松陰死後の松下村塾の門下生たちが長州藩内で過激派を構成し、勢いを得て何かを上申すると、毛利敬親は「そうせい」と許可を与えたそうです。

しかし、今度は逆に穏健派(幕府寄りの派)が勢力を得て、大広間に進み出て政治的旋回案を上申しても「そうせい」と許可を与えたそうです。

 

これでは藩内の意見がまとまるはずがありません。

 

これにならい、世継ぎの毛利元徳もほぼ同じ方針をとったと言われているので、桂小五郎や周布政之助はかなり大変な思いをしていたのかもしれません。

 

土佐藩の前藩主、山内容堂がある酒席で、家臣に「紙を持ってこい」と言い、その紙にくるりと逆さひょうたんを描き、「長州はこれだ」と、投げ捨てたことがあるそうです。

 

下が上になっているという意味で、松下村塾系の過激派が暴れると藩政担当の重役たちは、おろおろと彼らをなだめるだけ。

 

結局は彼らの言いなりに成り果てていると表現したのです。

そして「だから長州は乳臭児の藩なのさ」と、吐き捨てたそうです。

 

 

毛利敬親は有能か無能か?

実際に幕末の長州藩は、高杉晋作に代表される過激派書生たちが、藩内をかきまわしたため、朝廷から見はなされ、幕府からは討伐軍を差し向けられるという事態に陥っています。

 

まさに長州藩滅亡の瀬戸際まで追いつめられたのですが、坂本竜馬の仲介による薩長同盟によって、九死に一生を得るような状況となりました。

それを考えると、毛利敬親が暗愚だったのかという評価が出てくると思います。

 

しかし、そうばかりとも言えず、何よりも毛利敬親は人を見る目は確かなものを持っていました。

それは、若い松陰の才能を見出したり、長州藩から多くの逸材を輩出している事を例に挙げれば分かると思います。

 

吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎は紛れもなく敬親の作り出す風土の中で育っているのです。

 

 

そしてもう1つこういった意見もあります。

優秀な人材は左右どちらかの派閥(改革派と保守派)に属しています。

 

どちらかが長州藩の実権を握っても、毛利敬親はその勢力の上に乗っかり、「そうせい」と政令に許可を与えました。

それは、そうしなければ改革派もしくは保守派のどちらかから、毒殺されていた可能性があるというものです。

 

少し過激すぎる話しのようにも思えますが、本当のところはどうだったのでしょうか?

 

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