戦国の世を終わらせ、江戸幕府の開祖となった徳川家康。
彼を支えたのは本多忠勝、榊原康政、酒井忠次、平岩親吉といった三河武士達でした。
家康には人心掌握や謀略に長けた老獪な一面がありましたが、三河武士達に対する厚遇は生涯変わりませんでした。
その中でも、『三河武士の鑑』と称されるのが鳥居元忠です。
三河武士といえば、頑固で偏屈、しかし職人気質でストイックな性格というイメージが浮かぶでしょうが、それは元忠の生き様そのものといってもいいでしょう。
では、元忠は家康に何を残したのでしょうか?
今回は家康のために捨て石となった鳥居元忠について解説します。
鳥居元忠ってどんな武将?
鳥居氏は元来徳川家の前身である松平家の重臣でした。
元忠は1539年(天文8年)、松平家の重鎮である鳥居忠吉の3男として生まれました。
主君である家康はこの2年後に生まれているので、2歳ほど元忠が年上ということになります。
当時、松平家は家康の祖父である清康がわずか25歳で突如殺されてしまい、父・広忠が今川家や徳川家に臣従しながらどうにか繋いでいる状況でした。
家康は幼少期から人質として辛い日々を送りましたが、元忠はこの頃から家康と一緒にいたと言われています。
やがて広忠が亡くなり家康が当主となると、元忠も戦に参加するようになります。
今川義元が桶狭間で戦死すると、家康は三河での地盤を築くために諸豪族や松平氏の内紛を沈めていきますが、元忠は少なくともこの頃にはもう家康の側近として活躍していました。
その後は姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いといった有名な戦いにも参加しています。
信長存命時の元忠は主に武田と戦っていました。
この当時の彼について、その人柄を表すエピソードがあります。
1581年(天正9年)、家康は武田軍の岡部元信が守る高天神城を攻めることになりました。
高天神城はかつての武田信玄が落とすことができなかった城でありながら、勝頼によって徳川から武田の手に渡っている城でした。
元信の防御は固く、逆に元忠の軍は食料隊の到着が遅れて飢えに苦しむこととなりました。
困った家臣は元忠のために近所から略奪した食料を元忠に差し出しました。
すると元忠は「何を考えている。私1人が飢えを凌ぐことに何の意味がある。飢えなど恐れない。」と言って飯を投げ捨ててしまいました。
家臣はこれに感動し、互いに飢えを恐れず戦に臨んだと伝割ります。
士気が下がった軍中で、元忠の行為は恐ろしいまでのカンフル剤になったようです。
結果、高天神城は陥落し元信は忠義の討死をしました。
この時、勝頼は高天神城に全く援軍をよこさなかったため人心を著しく損なうこととなりました。
第一次上田城の戦い
武田が滅亡し、次いで信長が本能寺の変で亡くなると、家康は旧武田領を獲得するために北条と争うこととなります。
これを、天正壬午の乱と言います。
元忠はこの時、北条氏勝らの別動隊を破ったことで甲斐都留郡を与えられ、岩殿城、次いで谷村城の城主となりました。
都留郡は武田時代から半分委任統治領として自治を任されるような土地でしたが、元忠もまた家康から委任統治領として一定の裁量を与えらえていました。
やがて徳川と北条は和解し、家康は独立を画策していた真田昌幸に対し、沼田を北条に返すよう迫ります。
しかし、昌幸は先祖代々の土地を譲るわけにはいかないとしてこれを拒絶。
次男の信繁を人質として送り上杉景勝と手を結びます。
これに怒った家康は元忠や平岩親吉、大久保忠世らに命じて昌幸の本拠・上田を攻めるように命じます。
元忠らの兵力は7000、対する真田の兵力は2000。
数で言えば徳川軍が圧倒的に強いため、はじめは徳川軍が優勢でした。
しかし、二の丸まで到達した時点で昌幸の反撃が始まり、逆に徳川軍が苦戦する始末となります。
思わぬ敗北を喫した元忠らは止む無く後退しますが、そこに砥石城で待機していた真田信幸の別動隊が背後から奇襲をかけてきました。
元忠らは神川で袋叩きに遭い、その戦死者が神川を埋め尽くしたと言われるほどの損害を被ることとなりました。
元忠らは止む無く撤退し各々が城を守ることになります。
それから家康はどうにか形成を逆転しようと真田に付いた丸子氏を攻めるなどして抵抗しますが、ここでも苦戦を強いられてしまいます。
さらに上杉の援軍が迫っているとの報告を受けて状況はさらに悪化、ついに徳川内部では重鎮だった石川数正が突如秀吉に寝返るという事件が起きます。
こうした悪条件が重なり、家康は上田を一度諦めて撤退するしかありませんでした。
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伏見城での最期
家康は土佐の長曾我部元親や紀州の雑賀衆といった勢力と繋がり羽柴秀吉に抵抗していましたが、彼らがすべて秀吉に服従すると家康も後ろ盾を失い秀吉に下ることとなります。
元忠は秀吉政権下で小田原征伐にも参加していました。
秀吉は元忠に対し官職を与えようとしましたが、元忠は「今2人の主君から恩を受けることは家康殿の恩に背くことになる。私はそこまで器用な人間じゃない。」と断ったと言われています。
秀吉が亡くなると、家康は次の天下を狙って動き始めます。
秀吉の遺言を破って大名同士の縁組を重ねる家康に不満を持った上杉景勝が会津で反乱行動を起こすと、家康は秀吉恩顧の福島正則らを従えて会津に対して兵を起こそうとします。
この時、元忠が秀吉亡き後の伏見城の守備を任されると、家康は自ら伏見城に赴いて元忠を労いました。
家康が「たった3000の兵しか与えることが出来ず苦労をかけるね。」というと、元忠は「いえいえ、これから殿が天下を取られた暁には1人でも多くの人間が必要になるのです。私くらい大した損失にはなりませんよ。」と家康を気遣う姿勢を崩しませんでした。
家康が京を去ると、今が好機と蟄居していた三成が挙兵。
三成には毛利輝元、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継、小早川秀秋などが従っていました。
三成は総大将である毛利輝元の名前で伏見城に対し「即刻退去せよ、さもないと攻め落とす。」という書状を送りました。
城内にいた木下勝俊(小早川秀秋の実兄)はすぐさま退去しますが、元忠らはこれを拒否しました。
三成は未だ京にはいなかったので、宇喜多秀家を大将とする西軍が伏見城を包囲しました。
その中には、家康に味方しようとしたが元忠に拒否された薩摩の島津義弘もいました。
当初は数に勝る西軍があっという間に勝つだろうと考えられていましたが、元忠らは予想外に善戦し西軍の士気が大いに低下します。
西軍には義弘のように三成が強引に人質を取って味方にした者も数多くいたため、元から結束が今一つな面もありました。
しかし、長束正家がお抱えの甲賀衆に命じて伏見城にいる同士に内紛を促すと、事態は西軍に傾きます。
伏見城から火の手が上がり、城の守りが一気に揺らいだのです。
燃え盛る伏見城に、西軍の(すずきしげとも)が迫ります。
元忠は重朝と一騎打ちを繰り広げ、結果敗死したと伝わります。
その他城に残った武将達も皆討死、伏見城は焼け落ちてしまったのです。
現代に残る血天井
城主であった元忠の首は直ちに晒されますが、間もなく丁重に葬られました。
関ケ原の戦いが終わると、家康は元忠らが散った伏見城の遺構を京の各寺の天井として用いて供養に当てました。
これが「血天井」と言われている京の名物となっています。伏見城が落ちたのは夏の真っ盛り、血の痕がくっきりと残っていると伝わります。
家康とのやり取りから、元忠は既に死を覚悟していたのでしょう。
家康もその思いにこたえて彼を讃えることとなるのです。
これが三河武士の鑑である元忠像を生むきっかけとなりました。
なお、元忠の子孫は後に広島藩の大石氏に嫁ぎました。
その子孫が、あの大石内蔵助です。
彼もまた諸説はありますが忠義の臣として広く知られる存在となりました。
元忠の三河武士の魂は、意外なところに接点を持っていたのですね。