高杉晋作と並び、松下村塾を代表する人物といえば久坂玄瑞です。

松陰の弟子であった玄瑞はとても魅力的な人物でした。

 

では、久坂玄瑞はどういった人物だったのか?

今回は文献に残されているものから幕末ファンの噂まで、久坂の意外な一面を紹介します。

 

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久坂玄瑞の生涯を簡単に解説

久坂玄瑞(1840~1864)は長州藩出身の武士ですが、生まれは藩医の家でした。

15歳で家督を継いで藩医となった玄瑞は九州を遊学して、外国の脅威に立ち向かう必要性を痛感します。

 

そこで玄瑞は、萩城下にあった吉田松陰の教える松下村塾に入り、高杉晋作ら若手たちと国難を論じていきました。

こうしたなか幕府大老・井伊直弼が主導した安政の大獄で師匠の吉田松陰が刑死すると松下村塾の塾生とともに尊王攘夷、反幕府勢力を作り、自らはその中心的なメンバーとなっていきました。

 

しかし、長州藩の藩論は公武合体であり、尊王佐幕であったため玄瑞とは相いれないものでした。

玄瑞は桂小五郎など自身と考えの近い藩士を巻き込む一方、土佐藩や水戸藩など他藩の反幕府勢力との交流を持つことで藩主に藩論の転換を促しました。

 

その結果、毛利敬親は藩論を攘夷に転換。

これを受けた玄瑞は攘夷への動きを加速し、江戸郊外に建設中だった英国公使館焼き討ちします。

 

翌年には関門海峡を通過するアメリカやフランスなどの軍艦、商船に砲台から発砲。

しかし、連合艦隊から報復攻撃を受けることとなり、長州藩の戦艦や砲台はもちろんのこと、領内の寺や民家にいたるまで大きな損害を被ることになってしまいます。

 

そして、長州藩が朝廷内で権力を握りだすと、それをよく思わない会津藩と薩摩藩が京都御所を封鎖して、長州藩を京都から追放します(八月十八日の政変)。

さらに、池田屋事件で松下村塾の四天王と呼ばれた吉田稔麿が命を落とします。

 

これで我慢の限界を迎えた長州藩は、薩摩と会津を倒して無実の罪を解こうと京都に攻め込みます。

しかし、薩摩藩と会津藩が憎いとはいえ、御所を守る両藩に戦いを挑むということは天皇に弓を引くということと同じです。

 

久坂は必死に挙兵を思い止まらせようとしますが、暴発は止められず。

長州藩は御所に攻め込んで敗北を喫してしまいます。

 

そして久坂は長州藩の負けを悟ると、仲間に後を託し、同志の寺島忠三郎と刺し違えてこの世を去りまます。

 

 

吉田松陰との出会い

そんな久坂は16歳で九州へ遊学の旅へと出かけます。

そこで出会ったのが松陰の親友である宮部鼎蔵です。

 

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この時に久坂は宮部から松陰の話を聞き、松陰の下で学ぶことをすすめられます。

 

そこで久坂は松陰に宛てて一通の手紙を書きます。

秀才として名を知られていた久坂からしてみると、吉田松陰という人物がどれほどのものなのか試してみたいという思いがあったのかもしれません。

 

久坂玄瑞は吉田松陰への手紙の中で、過激な攘夷思想(外国人を斬るという考え)を披露します。

しかし、松陰は久坂の書に対して『笑止』、『考えが浅い』、『迷言である』と真っ向から批判し、厳しい論調で返事を書きます。

 

これに久坂は激怒し、「自分の考えを述べただけで、そこまで暴言を吐き、不遜な態度で返事をする必要があるのか?宮部先生や私があなたを優れた人物だと思っていたのは間違っていたようだ。」と返事を書いています。

 

しかし、これはわざと久坂を怒らせるための松陰の策略だったと言われています。

 

若さゆえの勢いを松陰に見抜かれる

『外国人を斬る』。

松陰は久坂が勢いでそう言っているだけで、実際には実行に移すことがないであろうと見破っていました。

 

1人の若者が一時の感情に任せて威勢のいいことを言っている。

松陰はそう感じ取っていたようです。

 

そこで松陰は久坂に対して、「外国人を斬るというなら斬ればいい。一度口にしたのであれば絶対に実行するように。実行できなければ私はあなたを非難します。」と突き放しています。

 

威勢のいいことを言うだけでなく、それに行動が伴わないと意味はない。

行動できない事は言うべきではない。

 

松陰の考えと見識に魅了された久坂は、松陰の主宰する松下村塾の門下生となっていきます。

 

 

実はその気がなかった?蛤御門の変の真相

師匠の松陰が安政の大獄で刑死すると、後を受けた玄瑞は攘夷達成への思いを強くしていきました。

しかし、思いとは裏腹に自身や長州藩には厳しい環境となっていきます。

 

外国船への砲撃や外国公館襲撃によって朝敵の汚名をきせられたからです。

玄瑞は汚名回復を果たそうと京へ上るのですが、その時、ともに兵を率いていたのが来島又兵衛という武力派でした。

 

武力派は兵力を背景に長州の無実を勝ち取ろうという勢力。

穏健派の玄瑞には相いれない勢力だったのです。

 

その来島が石清水八幡宮での軍議の際、意地でも進軍すべきとする主張を展開します。

玄瑞は朝廷から出ていた退却命令を理由に兵を撤退させることを提案しましたが、来島に「臆病者」と罵られ、「あなたが行かなくても私が兵を率いて戦う」と押し切られたため玄瑞は何も言えなくなり、軍議は来島の意見を採用してしまいました。

 

結局、わずか2000の長州兵で御所を守る2~3万の諸藩兵と戦闘し、来島は戦死、玄瑞自身も命を落としてしまいました。

 

久坂家のその後

玄瑞の死後、久坂家はどうなったのか?

当初は玄瑞の妻・文の姉の子を養子に迎え、跡取りとする予定だったらしいですが、後に玄瑞が京都の芸者と関係を持っていたことが分かり二人の間に生まれた子が久坂家を継ぐことになりました(養子は姉の家に戻されました)。

 

名を秀次郎といい、玄瑞の壮絶な最期からわずか2か月後に誕生しました。

以降、明治、大正をサラリーマンとして生き、1932年に世を去りました。

 

この秀次郎を通じて今でも玄瑞の血が子孫に受け継がれているのです。

 

イケメンのお医者様

玄瑞は、母を亡くした翌年に兄と父を立て続けに亡くし、15歳で家督の藩医を継ぎます。

当時医者は髪を剃ることが慣例とされていたので、玄瑞も例外ではなく坊主頭でした。

 

身長は六尺で、現在の約180センチととても長身。

かつ、坊主頭という出で立ちは人々の目を引くものでした。

 

Genzui_Kusaka

 

藩校の明倫館で学んでいた久坂は、秀才として広く名前を知られていました。

後に松陰も語っていますが、とにかく頭が良かったようです。

 

今で言えば、勉強ができる長身のイケメンと言った感じですね。

 

松陰の妹・文をふった?

松下村塾でも玄瑞の秀才振りは目立ったもので、松陰が妹の文の婿にと切望するほどでした。

しかし玄瑞は、縁談に乗り気ではありませんでした。

 

その理由は・・・。

文の容姿が好みではなかったから・・・。

 

久坂玄瑞が面食いだったのか、文の器量がそれほど良くなかったのかは分かりませんが、松下村塾のイケメンは結婚の条件に相手の外見を重要視していたようです(笑)

しかし、そのことを相談した相手に「妻を娶るのに容姿を気にするのか!」と詰められ、しぶしぶ縁談を受け入れたと言われます。

 

そして、多くの花燃ゆファンのイメージを裏切ってしまうかもしれませんが、実は久坂玄瑞と文の間には甘い新婚生活という時間は無かったようです。

今とは結婚の考え方も違う時代なので当たり前ですが、久坂は政事に忙しく、女遊びも激しかったと言われています。

 

大食いの逸話

文久3年の正月、知人を訪ねた玄瑞は、出された雑煮餅を30個も食べたという逸話があります。

なぜそんなに食べるのか理由を尋ねられると、「近いうちに死ぬだろうから、一生分の餅を食べておく。」と言うものでした。

 

翌年の禁門の変で自刃している事を考えると、この頃から玄瑞にはいつ死んでも構わないという覚悟が出来上がっていたのかもしれません。

 

字の下手な力持ち

仲間との宴会中、芸をすることになった玄瑞。

おもむろに傍にいた芸姑を碁盤の上に乗せ、碁盤ごと芸姑を持ち上げてしまったというエピソードがあります。

ただでさえ背の高い玄瑞。

持ち上げられた芸姑はさぞ恐かったのではないでしょうか。

 

イケメンで力持ち、そしてお医者さんで頭も良いというパーフェクトに見える玄瑞ですが、その玄瑞にも1つだけ欠点がありました。

 

それは字があまり上手くないこと・・・。

玄瑞の書はいくつか残されていますが、なかなか癖のある字を書いています。

他の志士たちと比べると、独特というかイマイチというのが幕末ファンの定評となっています。

 

久坂玄瑞は明治になって西郷隆盛に、「もし久坂さんが生きていたら、私は参議などと大きな顔をしていられない。」と言わしめるほどの人物でしたが、そんな玄瑞にも意外とユニークな面があったようです。

そのギャップがまた玄瑞の魅力だったのかもしれませんね。

 

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