萩市の吉田松陰誕生地の近くには吉田松陰の銅像が建っています。

その隣で望遠鏡をもって膝をついているのが金子重輔です。

 

歴史的にはあまり有名ではない金子重輔がなぜ吉田松陰と一緒に銅像になっているかご存知でしょうか?

 

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金子重輔を簡単に解説

実は、この金子重輔という人物は若くして亡くなってしまうので、幕末や明治にその名が世に知れ渡ることはありませんでした。

しかし、密航を企てる松陰と行動を共にするなど、師に尽くした愛弟子として、今ではその名が知られています。

 

金子重輔は松陰より2歳年下でしたが、松陰の人柄に惚れ、行動を供にするようになります。

日本は海外の進んだ文化を取り入れ、強い国にならなければいけないという考えを持っていた松陰。

その頭の中には海外への渡航の企てがありました。

 

当時はもちろん海外へ渡る事は重罪です。

ただ、松陰と行動を共にすると決めていた重輔は、この命をかけた計画に同行します。

 

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しかし、長崎ではロシア船に乗り込もうとして失敗。

そして、ペリーが2度目の来航を果たした時にも密航を企て、小船でペーリーの軍艦にまでたどり着きますが、ペリーは首を縦に振らず、2度目も渡航に失敗してしまいます。

 

松陰はこの時に自首を決意。

しかしこの判断が結果的に重輔を死に追いやってしまう事になります。

 

 

岩倉獄での無念の最期

自首した2人は現在の東京にある伝馬町にあった牢獄に送られます。

松陰は武士として通常の牢に入れられますが、重輔は身分の低いものが集る牢に入れられます。

 

そして、萩の獄へと唐丸籠(とうまるかご)という、小さな籠に入れられて護送されるのですが、道中の劣悪な環境にすっかり衰弱してしまいます。

重輔は腹を下していましたが、籠から出て用を足す事もできず、汚物にまみれたままだったと言われています。

 

萩についてからも、松陰は野山獄という身分の高い人が入る牢へ、重輔は岩倉獄という身分の低い人が入れられる牢へ入れられます。

 

当時の身分による扱いには大きな差があり、松陰の野山獄はある程度の環境は保たれていましたが、重輔の岩倉獄はかなり環境が悪い獄でした。

そして、重輔はそんな劣悪な環境の中、病も酷くなり、衰弱して亡くなってしまいます。

 

重輔に対する松陰の思い

松陰は自分について来てくれた重輔の死を知って愕然とします。

この時は松陰も本当にショックを受けたようで、責任を痛感していた松陰は、手紙の中でも度々、金子重輔の名前を出しています。

 

自身が節約したお金を重輔の遺族に送るなど、その行動からも無念の思いがよく分かります。

萩にある金子重輔の墓には、この時松陰が送ったお金で建てられたと思われる花筒が残っています。

 

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