真田信繁には少なくとも4人の妻がいたことが分かっていますが、その中で正室の立場にあったのが春(竹林院)です。
真田信繁は今では人気のある戦国武将ですが、真田家の当主という訳ではなく、人生の最後の最後に大坂の陣で華々しく活躍した人物。
そのため、若年期に関しての詳しい資料は残っておらず、正室である春(竹林院)に関しても同じことが言えます。
竹林院と信繁(幸村)の結婚時期
竹林院は豊臣秀吉の家臣、大谷吉継の娘と言われています(姪や妹説あり)。
春に関する資料は非常に少なく、信繁の元に嫁いだのも1594年頃という事しか分かっていません。
また、竹林院という戒名で呼ばれている事からも分かるように、本当の名前すら現代には伝わっていません。
真田信繁(幸村)は真田家の当主ではなく弱小大名家の次男。
さらに、関ヶ原の合戦の後は九度山での蟄居生活が10年以上も続いていたので、当時は記録に残されるような人物ではありませんでした。
そう考えると、正室の竹林院に関する資料が少ないのも頷けます。
竹林院の子供と性格
竹林院が生んだとされるのは嫡男の真田幸昌、次男の大八(片倉守信)の他に女子が3人。
この事からも真田信繁との夫婦仲は良かったのではないかと思われます。
関ヶ原の合戦で真田昌幸・信繁親子が敗れて九度山に幽閉されると、竹林院も行動を共にし、一緒に九度山に入っています。
そこでは、少しでも家計の足しになればと、鎧兜を着用する時などに使う真田紐を作り、これを収入源として信繁の生活を支えていました。
真田紐は丈夫で伸びにくいのが特徴で、『真田が作った強い紐』という謳い文句で販売されていたと言われています。
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九度山での生活はとても困窮していて、信繁も手紙で愚痴をこぼすほどでした。
この真田紐の逸話は、そんな生活の中でも何か自分に出来る事をして夫を支えようという、竹林院の性格が良く分かる逸話ではないかと思います。
大阪の陣に出陣する子供、幸昌への言葉
そして、もう一つ竹林院の性格を表す逸話として知られているのが、大坂の陣に信繁と共に出陣する幸昌にかけた言葉。
現代の感覚からすると、『生きて帰ってこい』という言葉をかけたくなるのが心情ですが、竹林院は幸昌に対して、
『自分たちの事は心配せず、父と生死を共にするように』と言って送り出しています。
武門の家に生まれたからには、武士として恥ずかしくない生き方をしろ。
これは石田三成との友情に報いて関ヶ原に散った、大谷吉継の娘だからこそ言える言葉だったのかもしれません。
この時、竹林院の心の中には名将と言われた父・大谷吉継の姿が浮かんでいたのではないでしょうか?
この竹林院の言葉通り、大坂の陣で豊臣の敗北が決した後、幸昌は信繁からの『秀頼の最期を見届けるように』との命に従い、大坂城に引き返して秀頼と共に最期を向かえています。
大坂の陣で夫と子供を亡くした竹林院は、徳川家康からの許しをえると、京都で娘夫婦と共に暮らしています。