山県昌景は武田信玄の家臣で、武田四天王の一人として数えられた人物。

武略のみに秀でていたわけではなく軍略や内政、外交面でも秀でており、武田信玄の片腕として活躍していきます。

 

山県昌景は戦の際、騎馬隊を赤く染めた具足で統一した赤備えを率いて出陣しており、武田の精強さを天下に示します。

今回は赤備えとして戦を駆け巡り、内政や外交にも優秀な山県昌景の紹介です。

 

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飯富虎昌の赤備え

武田の赤備えの生みの親は「甲山の猛虎」と称された飫富虎昌が最初。

赤備えは騎馬隊のみで編成された特殊な部隊です。

 

戦国時代、戦場で具足や槍などに朱色を使うという事は特別な意味を持っていました。

朱色は大きな武功を収めた者が大名から賜る色で、誰もが自由に使用して良い色ではありませんでした。

 

その朱色の使用を武田家で許されたのが山県昌景の兄、飯富虎昌(おぶとらまさ)でした。

武田の赤備えは飯富虎昌(おぶとらまさ)が朱色で統一した騎馬武者たちの部隊を編成したのが始まりです。

 

しかし、赤備えを率いる飯富虎昌(おぶとらまさ)にとある事件が起こります。

 

信玄の嫡男である武田義信が信玄暗殺を企み、義信の傅役であった虎昌は義信の企みに参加。

信玄暗殺計画は露見して義信は自刃、虎昌も自ら命を断ちます。

 

その後虎昌が率いていた、特殊部隊赤備えは弟である山県昌景が引き継ぐこととなります。

(後に赤備えは井伊直政や真田信繁が継承していきます。)

 

三方ヶ原の戦いで赤備えが徳川家康を蹴散らす

虎昌から引き継いだ赤備えを率いて昌景は各地の戦いを転戦します。

昌景は西上野の箕輪城攻略戦や駿河侵攻戦などの戦に参加し多大な戦功を挙げ、駿河江尻城の城代に任命されています。

 

1571年の遠江・三河侵攻戦には昌景は別働隊として三河に侵攻し山家三方衆などの奥三河の豪族を次々と服従させ、自慢の赤備えを率いて戦功を上げ続けます。

1572年に武田信玄は京に旗を立てるために西上の軍を起こします。

 

この時に起こったのが三方ヶ原の戦い(徳川軍VS武田軍)で、この戦いで昌景は、赤備えを率いて秋山信友とともに徳川家康の正面軍と戦います。

徳川家の精鋭軍も山県の赤備えの前にはなす術もなく、昌景は徳川家康の本陣に肉薄。

 

徳川家康は命からがら浜松城に逃げ延び、側にいた家臣に「恐ろしきは山県である」と語ったという逸話は有名です。

三方が原から命からがら逃げ延びる家康は恐怖のあまり馬上で脱糞してしまったという逸話も残されているのですが、後の天下人をここまで恐怖で震え上がらせるとは、山県昌景の赤備え恐るべしです。

 

長篠の戦いでの最期

武田信玄の死後、武田の棟梁の座を継いだのは四郎勝頼です。

勝頼は父信玄を超えるため、領土拡張政策を武田の方針の中心に据えて行動を開始します。

 

この政策は父信玄が陥落させられなかった高天神城を攻略するなど、一定の成果を表すことになります。

しかし連戦の結果、国力は低下。

 

この事を昌景は勝頼に諫言しますが、若い勝頼は聞く耳を持ちませんでした。

その後武田軍は徳川軍の重要拠点である長篠城を攻撃します。

 

徳川家康はすぐさま織田信長に救援を要請。

信長は軍勢を率いて長篠城救援に赴き、織田徳川連合軍は設楽が原に陣を敷きます。

 

武田軍も設楽が原に陣を敷き連合軍を迎え撃つ構え。

武田勝頼は連合軍を撃滅する意気込み満々でした。

 

この時も山県昌景、馬場信春、内藤昌豊などの重臣達は決戦を止め退くことを勝頼に進言しますが、その声は勝頼には届きませんでした。

昌景は尚も決戦を止めるよう促すと、勝頼は武田の御旗(みはた)・楯無し(たてなし)に誓うことで重臣たちを黙らせてしまうのです。

 

「御旗・楯無し」とは武田家の家宝のこと。

御旗(みはた)というのは武田信玄の先祖が後冷泉天皇から下賜された「日の丸の旗」で、楯無(たてなし)というのは武田家に先祖代々伝わる鎧。

 

槍や刀を通さないくらい頑丈な作りで、楯(たて)が必要無いという意味で「楯無し」と呼ばれています。

武田家では当主が「御旗・楯無も御照覧あれ」と言うと、議論を止め、この家宝の前で誓ったことは、全員が死を持っても守らなければならないという決まりがありました。

 

この結果、昌景は反対意見を押し込め、長篠の戦いに注力することになります。

 

昌景の赤備えに対するのは三方が原で完膚なきまでに叩き潰した徳川軍。

長篠の戦いでは馬防柵で陣形を強固にすることで守備に特化しています。

 

昌景の赤備えは徳川軍に突撃しますが、徳川軍からの一斉射撃で赤備えは壊滅的な損害を受けます。

それでも昌景は怯まずに強行突撃を行い、最後には徳川軍の一斉射撃の前に倒れ、討ち取られてしまいます。

 

享年47歳でした。

 

山県昌景の逸話

山県昌景にはこんな逸話が残っています。

ある日、赤備えが何故あんなに強いのか信玄の異母弟である一条信龍が山県昌景に尋ねました。

 

昌景は

 

「訓練も大切ですが、それ以上に大切なのは戦に望む際の心がけであり、常に初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練るのです。また勝てると思っても過信せず、勝つ確信がない限り戦わないことが我が軍の秘訣ですね」

 

と一条信龍に答えたそうです。

 

赤備えを率いて各地を転戦して武功を挙げた山県昌景。

その勇猛さは徳川家康も恐れるほどでした。

 

しかし、昌景が凄いのは武勇だけの武将ではなかったという事。

昌景は内政や外交にも秀で、信玄の片腕として行政においても辣腕を振るっています。

 

最後は長篠の戦いという、不本意な戦で命を散らしてしまうのが残念で仕方ありません。

設楽が原の戦いの時勝頼が昌景、馬場信春など重臣の意見を取り入れていれば歴史はかなり変わっていたのではないでしょうか?

 

真田信繁(幸村)も赤備えを率いて戦ったことは有名ですが、それは若き日に見た、山県昌景や武田の赤備え軍団に憧れを抱いていたからではないかと思います。

 

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