黒田官兵衛と長政親子は九州征伐の戦功が認められ、秀吉から豊前国の中から6郡を与えられます。

 

豊前に入った官兵衛・長政親子は中津城を築城し、領国の経営に乗り出しますが、それと同時に秀吉に従わない戦国大名・宇都宮鎮房(うつのみや しげふさ)の反乱に頭を悩ませる事になります。

 

スポンサードリンク

宇都宮鎮房

宇都宮鎮房は城井谷城という難攻不落の堅城を本拠地としてしていた戦国大名で、怪力の弓の使い手として知られていました。

 

城井谷に城を構えた事から城井(きい)鎮房と呼ばれる事もあります。

 

鎮房は秀吉の九州征伐が始まると秀吉に降りますが、九州征伐終了後に秀吉は伊予国への移封と、鎮房が持っていた藤原定家の「小倉色紙」の引渡しを求めます。

鎮房からしてみれば突然九州に押しかけてきた秀吉に家宝を差し出して、先祖代々引き継いできた土地を捨てて、四国に移動しろと言わて納得できるはずはありません。

 

一度は城を明け渡し、秀吉に移封の中止を求めますが秀吉が聞き入れなかったため、鎮房は明け渡した城井谷城を奪還して、徹底抗戦の構えを見せます。

この鎮房の城井谷城の奪還には地元の領民も加わっていたそうなので、鎮房は領民から慕われていたようですね。

 

そして宇都宮鎮房に呼応する形で豊前国人一揆が発生することになります。

 

黒田長政の敗戦

この宇都宮鎮房の反乱が起きた時、黒田官兵衛は小早川隆景と共に肥後の国人一揆の鎮圧に努めていましたが、急ぎ引き帰し黒田長政と共に鎮圧に乗り出します。

官兵衛は城井谷城は堅城で城攻めは不利とみますが、血気に逸る長政は官兵衛の反対を押し切り、無断で城井谷を攻めます。

 

この時は井上九郎右衛門も長政を止めますが、長政は聞く耳を持たなかったと言います。

 

鎮房はゲリラ戦法を使ったり、負けを装って退却し、黒田軍を引きつけてから一気に殲滅するなど戦巧者で、長政の軍勢いは大敗を喫してしまいます。

若さゆえに軍略や戦術に乏しかった黒田長政、20歳の大敗北でした。

 

合元寺の赤壁と鎮房の最期

城井谷城を攻め落とすのではなく、兵糧攻めに切り替えた官兵衛ですが、宇都宮鎮房がなかなか降る様子がなかったので、最終的に官兵衛と長政は非情な手段をとる事になります(秀吉の案とも)。

 

官兵衛親子は本領安堵を条件に鎮房と和議を結ぶため、鎮房を中津城に呼び出します。

 

その際、中津に向かった鎮房の供の兵は合元寺で待機させるように伝え、鎮房と数名の家臣だけが中津城に向かうと、訪れた鎮房を長政は中津城内で暗殺します。

ある程度、鎮房も警戒はしていたのかも知れませんが、多勢に無勢では敵うはずもなく、哀れな最期を迎えます。

 

鎮房を殺害すると、長政は合元寺にも兵を差し向け、待機していた家臣を全員惨殺してしまいます。

合元寺では応戦した宇都宮家臣との間で壮絶な切り合いが行われたと伝わります。

 

合元寺の柱には今もその時の刀傷が残り、討ち取られた者の返り血で赤く染まった壁は、怨念や呪いで、何度白く塗りなおしても血の色が浮き出てくるため、血の色を隠すために真っ赤に塗られたと言われています。

 

これが今も残る合元寺の赤壁の由来です。

最後には主を失った城井谷城も攻め落とされ戦国大名としての城井氏は滅亡します。

 

中津城の亡霊

この鎮房の謀殺は官兵衛・長政の案なのか、秀吉の案なのか詳しい事は分かっていません。

 

隣国の肥後では佐々成政が領国経営に失敗し、その責任を取らされて秀吉に切腹を命じられるという、寂しい最期を迎えていますので、官兵衛と長政も手段を選んでいられなかったのかも知れません。

 

しかしこの宇都宮鎮房を粛清して以降、中津城に鎮房の亡霊が出るようになり、長政らを悩ませたと伝わります。

そして、その怨霊を鎮めるために中津城内に城井神社が建てたれました。

 

官兵衛は宇都宮鎮房のを粛清しなければいけない状況になってしまったことをとても悔やんでいたと言います。

この事件は黒田官兵衛・長政親子にとっては消し去りたい出来事になってしまったようです。

 

中津城と合元寺の紹介動画です。

 

感想

宇都宮鎮房は長政を打ち破るなど戦上手であった事は間違いなく、領民からの信頼も厚かった領主だと思います。

 

本領安堵の約束を守らなかった秀吉に非があるのに、宇都宮鎮房を成敗しなければいけなかった官兵衛達の苦悩は計り知れないものがあったでしょう。

自分達が生き残るためには仕方がなかったのかもしれません。

 

ただ、私には合元寺の壁が赤く塗られたのは、宇都宮一族を慕っていた領民が黒田氏への反発を込めての事のように思えます。

 

領民たちも生きていくためには黒田家の支配に従うしかありませんが、心の中には宇都宮氏に対する深い尊敬の念があったのだなと思います。

 



Sponsored Link