今日紹介する荒木村重は「逃げる恥だが役に立つ」と言う一言がぴったりな武将。
私は子供の頃から嫌なことから逃げてばかりいてはダメだと教わっていたので、2016年の流行語大賞にこの言葉が選ばれたときは衝撃を受けました。
そして、この言葉通りの人生を歩んだ武将がいたことはさらなる驚きでした。
ハッキリ言ってしまうと、荒木村重という人間の人生というのは非常に物議を醸させるものかもしれません。
このような人生がありかなしかは、個人の価値観によって大きく意見が分かれます。
では、荒木村重はどのような人生を歩んだのでしょうか?
今回は村重の生い立ちから詳しく見ていきましょう。
荒木村重の性格や評価を簡単に解説
荒木村重は主家の内乱に乗じて勢力を拡大し、和田惟政を破り茨木城主となります。
それから後、織田信長から摂津の国の支配を許されると、摂津の伊丹氏を滅ぼし名実共に摂津の支配者となります。
自分の才覚だけでのし上ったところを見ると、武勇はもちろん、多少のずる賢さや野心も持ち合わせていた武将だったようですね。
宣教師のルイス・フロイスは「短気で頑固なところはあるが、普段は穏和で陽気」と村重の性格を表現しています。
また、残虐で知られた織田信長とは違い、人の命を大切にする一面も持ち合わせていたようです。
その理由は、村重は人質を殺すという事をしていないこと。
黒田官兵衛を有岡城に幽閉した時も、小寺政職から官兵衛を殺すようにと言われていますが、幽閉するだけにとどめています。
また、信長に謀反を起こした時に自分の元に居た、高山右近の人質や、息子の嫁に来ていた明智光秀の娘を殺すことなく送り返しています。
その他にも、戦の最中に討ち取れる敵の大将を見逃したこともあったようです。
若いころから殿の覚えめでたい優秀な家臣
荒木村重は天文4年(1535年)に摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男としてに生まれます。
最初は池田勝正の家臣として仕えていました。
この頃の荒木村重の活躍はあまりわかっていませんが、前当主の池田長正の娘を妻に迎えていることから、かなり将来が有望視された人物で、殿の覚えも良かったことが分かります。
しかし、後に池田知正とともに主君の池田勝正を裏切って三好三人衆に寝返るなど、この頃からかなりの現実主義者だったようです。
そんな時、京都に三好三人衆を蹴散らして進撃してきたのが織田信長でした。
事ここに至って、仕方なく織田家家臣となる道を選んだ荒木村重。
この出来事こそ彼にとっての大きなターニングポイントになりました。
信長から与えられたまんじゅうを口で受け取る
村重が織田家の家臣になったのは元亀2年(1571年)のこと。
実はこの元亀という年号の期間は織田信長にとって非常に苦しい時期で、将軍足利義昭の命令によって浅井、朝倉、本願寺、また武田などの数々の勢力が信長包囲網と呼ばれる一大勢力結成していました。
その信長包囲網の黒幕である足利義昭と決着をつけるべく京へと上洛した織田信長。
荒木村重と細川藤孝は信長に協力しようと、近江で出迎えます。
この時上座に座る信長に平伏して謹んで平伏して迎える荒木村重。
その村重に対し信長は実に彼らしい方法で歓迎します。
信長は平伏する荒木村重に対して、そばに置いてあるまんじゅうを差し出します。
しかも、ただ差し出すだけならまだしも、なんと刀の先にまんじゅうを突き刺してそれをそのまま村重に差し出します。
つまり、信長がその気になれば村重の喉を突き刺せる状況。
村重の忠誠心が試される場面でした。
しかし、村重は迷うことなくまんじゅうを一口で食べてみせます。
この村重の度胸に感心した信長は、村重を重用するようになっていきます。
「彼一人味方に属せば摂州一国平治することは言うに及ばず」と口にされ、秀吉や光秀と同列の扱いをされていた村重。
後に信長が村重を摂津37万石の大名に任命したことからも、非常に期待された武将であることがうかがい知れます。
信長「村重、敵に米を渡したという噂があるけど、まさか違うよな?」
天正5年(1577年)に羽柴秀吉が中国地方方面の総大将に任じられたあと、村重も秀吉と行動を共にするようになり、信長に反旗を翻した別所長治の三木城攻めなどに加わっています。
この時期の中国地方は非常に不安定で、別所長治だけでなく様々な武将が織田から毛利に寝返るなど、なかなか慌ただしい時期でした。
そして、村重も人の心配ばかりしていられない状況になってしまいます。
その理由は家臣の軽率な行動・・。
なんと村重の部下の一人が、信長と対立している石山本願寺に米を横流ししているという事実が発覚するのです。
しかもこの事実に村重が気づいたときには、既に信長の知るところとなっていました。
やがて糾問の使者として村重ものもとに明智光秀らがやってきます。
実は光秀の養女、倫子は村重の嫡男村次の妻となっており二人は親戚関係でもありました。
光秀は「村重が母を人質として差し出すなら今回のことは不問にすると言っている。すぐに信長に釈明をすべきだ」という信長の意向を伝えて説得。
村重もそれで許してもらえるならと、さっそく安土城に向かうことにします。
しかし、途中で立ち寄った茨木城で荒木家臣の中川清秀から「明智はああ言ってたけど信長が一度疑いを持った部下をそのまま無罪放免にしておくとは考えられんて!」と進言。
この話を聞いた村重は考えを改めて、有岡城に篭城してしまうのです。
来いよ信長、使者なんか捨ててかかってこい!
しかし信長も交渉を諦めてはいませんでした。
期待していた村重に帰ってきて欲しいと切望していたというのもありますが、村重の治めていた摂津は当時京と秀吉のいる姫路の中間という要衝でありここが敵になると秀吉たちは敵前において孤立してしまいます。
なので最悪の場合、信長は村重だけでなく秀吉という有力な家臣を一度に失う可能性があり、なんとしても平和的にこの謀反を収めたかったのです。
そのため、信長は何度も使者を送って村重を許す意思があることを伝えます。
正直、こんな慈悲深い信長そうそう見られません。
ですが、村重は明智光秀、羽柴秀吉、黒田官兵衛といった使者たちの説得には耳を貸さないばかりか、官兵衛を捕らえて地下牢に幽閉してしまいます。
説得をしても聞き入れてもらえなかった信長もついに激怒し、荒木村重配下の切り崩しにかかります。
まず信長の命を受けた宣教師の説得により高槻城の城主高山右近が信長に帰順。
また、信長と戦うよう村重を説得した茨木城主中川清秀に関しては領地とお金を使って帰順させます。
中川くんさぁ……。
有岡城の戦い
信長は軍勢を派遣しますが、村重は総構え(城下町を取り込んだ城郭)の有岡城と巧みな用兵で織田軍を苦しめます。
毛利や本願寺と同盟を結ぶと共に、有岡城の周囲に砦を築いていたので織田軍も力攻めでは有岡城を落とすことはできません。
さらに荒木村重は織田信長から摂津を任されるだけあって、戦も上手く、奇襲を仕掛けては織田軍を散々に苦しめています。
しかし、期待していた毛利の援軍が来ずに追い詰められていく荒木村重。
1年ほど篭城した天正7年(1579年)9月2日、ついに村重は少数の近習をつれて城を脱出してしまいます。
向かった先は嫡男が護る尼崎城。
これは、逃亡とも、毛利氏に直接援軍を頼むためとも言われていますが、はっきりとしたことは分かっていません。
村重の妻・だしの最期
村重のいなくなった有岡城は織田軍の総攻撃を受けて降伏開城し、妻子は囚われの身となります。
信長は尼崎城と花隈城を明け渡すなら家臣と妻子の命は助けるという条件を出し、家臣が村重の元までこの条件を伝えに行きます。
しかし村重はこの要求を突っぱね、家臣や妻子を見捨ててしまいます。
これに激怒した信長は、荒木家の家臣や妻子を磔にして銃殺したり、生きたまま農家に押し込め、火を放って焼き殺したりしました。
その数は500名以上に上ります。
そして、村重の妻のだしは荒木一族や重臣と共に、京都市中を引き回された後、六条河原で斬首されました。
村重が信長の開城要求を蹴った理由は分かりませんが、結果的に一族を見捨てたことに変わりはなく、戦国の世とはいえ、荒木一族や家臣団はとても哀れな末路を辿ることになります。
その様子を見ていた貴族の一人はこの様子を「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」と書き残し、信長の残虐性を強調させる出来事として人々の記憶に残っていくことになります。
その後も信長はこの事件の関係者を次々に処刑していき、最終的に粛清の対象者となった数は600名にのぼりました。
なぜ荒木村重は有岡城から逃げた?逃亡の謎
ここで気になるのが、何故、村重は籠城中の有岡城から一人だけ脱出したのかと言う事です。
今までは自分が生き延びたいが為の逃亡と言われていましたが、有岡城を脱出した後に書かれたと思われる手紙にこんな一文が残っているそうです。
「援軍を待っているので一刻も早く来てほしい。」
これは毛利家に対して援軍を催促する手紙で、村重には戦う意思があり、自分の命欲しさの逃亡ではない事が分かります。
戦上手の村重の事なので、人知れず有岡城を抜け出し、援軍と共に織田方への奇襲攻撃を仕掛けるつもりだったのかも知れません。
村重ならそれくらいの事を考えそうな気もします。
家族や家臣を見捨てたのも、降伏などせずに、織田信長に最後まで抵抗するという決意の表れだったのかも知れません。
現代の私達の価値観からすると見殺しにされた、妻のだしや家臣たちが可哀想だと思ってしまいますが、もしかするとだしや家臣達は自分達の命よりも信長を倒し、本懐を遂げる事を村重に望んでいたのかも知れませんね。
村重は花隈城に入り、織田信長軍に最後の戦いを挑みますがこの戦いでも敗れ、最後には毛利氏に亡命します。
戦国武将を辞めて茶人として復活!道糞と名乗る
信長を裏切った挙句、家臣や家族を見捨てて逃げ出した荒木村重。
先ほど紹介したように、村重は逃げ出したのではなく、毛利に援軍を頼みにいったのだという説もありますが、だからといって死んだ家臣たちや家族が帰ってくる訳もありません。
そのため、村重もこの自分の人生を卑下するかのように、自分はもはや道に転がる糞だという意味で「荒木道糞」と名乗ることになります。
気持ちはわからなくもないですが、これ以上の自虐ネームもないですね……。
城が落ちたあとは毛利氏を頼って逃亡。尾道で隠遁生活を送ります。
そんな村重に転機が訪れたのは天正10年(1582年)、本能寺にて信長が死んだ時でした。
広島県尾道市東久保町の市立中央図書館の裏手に道薫が身を寄せていた竹林寺というお寺があったそうです。
図書館を建設する際の発掘調査ではここから井戸の跡が発見されたようで、この井戸の水を使って道薫がお茶を立てていたのかもしれません。
この地に残る『筒湯』という地名も道薫が立てたお茶に由来するものだとする説もあり、尾道の町には道薫の存在した証は今も残っているようです。
村重を追う信長が死に、また、秀吉が毛利と和睦を結んだことによって逃げる理由がなくなったため、堺へと引越し新たな人生を踏み出します。
もともと茶の湯に興味があった村重は千利休に茶の湯を学び、利休七哲に数えられる文化人として知られるようになります。
また、過去に因縁のあった秀吉も村重に再会すると、
「道糞とかいう名前はあんまりや……。これからは道薫って名乗り」
と村重に新たな名前をつけてやったりと目をかけます。
そしてついに天正14年(1586年)。彼は堺にてひっそりと世を去ります。
享年は52。
なんとも信長から期待されつつも不可解な謀反事件を起こし、またその首謀者でありながら信長よりも長生きするという数奇な人生を送った男の最後でした。
逃げるは恥だが役に立つ……のか?
昔の葉隠という書物に『武士道というは死ぬことと見つけたり』という言葉が有り、その言葉通り、武士は時が来れば潔く命を落とすべきだという価値観がありました。
(江戸時代に書かれたものなので、村重の生きた時代より少し後の時代の価値観ですが・・。)
この価値観に照らし合わせると、村重は武士失格と言わざるを得ないかもしれません。
謀反や逃亡については諸説はあるものの、結果的に味方を見捨てて城を逃げ出し、自分を信じていた仲間や家族が命を落とすことになったのは事実です。
「他人を犠牲にしても生き延びる。生き恥を晒してしまったが仕方ない・・・」そのような人生と言えるかもしれません。
しかし逆を言えば恥を上回る生存意欲があったという見方もできます。
何をおいても自分だけは生き残るという究極のエゴイストでなければおそらく生きていることに対する恥に耐えることはできなかったことでしょう。
生き恥を晒したいわけではないのですが、彼の生き様を見ていると自分はこれくらい生きることに対して貪欲になっているだろうか、生きることに執着を持っているだろうかと思うことがあります。
死ぬことがそれほど大事なのであれば生きることにはもっと価値があるのではないだろうか。
荒木村重(荒木道糞)という人物の人生を振り返って感じた雑記にてこの話を結ばせていただきます。
おすすめの登場作品
荒木村重が登場する代表的な作品は下記の2つ。
特に軍師官兵衛では準主役級にスポットライトが当てられています。
『軍師官兵衛』
2014年のNHKの大河ドラマです。
村重を演じるのは田中哲司さんなのですが、村重がいかにして信長を裏切っていくのかを非常にリアルに表現した作品で人気を博したドラマです。
信長のまんじゅうを食べる有名なシーンや、官兵衛を幽閉して自分の味方につけとそそのかして官兵衛の心を揺さぶります。
最後、家族を殺されてしまい、悔しがる熱演は是非一度見て欲しいです。
村重の妻・だし役で出演していた桐谷美玲さんとの関りも良く描かれていました。
『へうげもの』
古田織部を主人公とした戦国アニメです。
このアニメでの村重は完全にクズ男という感じ。
- 城に保管している茶器を全て持ち出して城から逃走。
- また、追ってきた織部に対しても「この茶器やるから見逃してくれ!」と行って逃走。
- その後、織部と再会した時も全く反省しておらず「生きてさえいればこんなにうまい茶が飲める」と開き直る。
など、生きることに非常に貪欲な姿が描かれています。
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