井上聞多(馨)は幕末から明治、大正と活躍した長州藩の志士です。
井上家は毛利家に古くから仕え、長州では名門といった家柄になります。
そのため、井上聞多は吉田松陰の松下村塾に学んではいませんが、萩の藩校・明倫館に学んでいます。
長州ファイブの1人
井上聞多は家柄が良かったこともあり、藩主である毛利敬親の小姓を務めています。
藩主などの身分の高い人物との行動が多かったため、松下村塾の塾生とは視野や住む世界が異なっているようにも思えますが、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文とは親交を深めていたようで、イギリス公使館の焼き討ちに参加しています。
その後、攘夷を行うには海外の情勢を知る必要があると実感した井上聞多は、周布政之助に頼み、イギリスへの密航を決意します。
この時、仲の良かった伊藤博文にも一緒に海外に行くように誘い、この時イギリスへ渡航した5人は長州5傑(長州ファイブ)と呼ばれています。
左下が井上聞多、右上が伊藤博文
このイギリスへの密航によって井上聞多は海外と日本の国力の差を痛感し、今のままでは攘夷が不可能であることを悟ります。
そんな時に下関で長州藩が外国船に砲撃を加えるなど、長州藩と外国との戦いの機運が高まります。
もし、外国との戦いに敗れるようなことがあれば、長州藩が取り潰しになってしまうかもしれない。
そう思った井上聞多は伊藤博文と帰国し、四か国連合艦隊が下関を占拠した時には、高杉晋作と共に講和会議に出向いています。
この時は伊藤博文と共に通訳としての参加だったとされています。
井上馨の性格
このように井上聞多は攘夷や長州藩のために命を賭して行動できる人物でしたが、最もその才能を発揮したのは明治維新後の官僚としての働きでした。
外務大臣、内務大臣などを歴任し、外交や財政の立て直しに尽力しています。
第2次伊藤博文内閣では、交通事故にあった伊藤博文の代りに、総理大臣の代理になるなど、その信頼の高さがうかがえます。
井上聞多はとても情に厚く、自分にとってあまり良くない役回りでも引き受けてしまうところがあったと言われています。
そのため、井上聞多(馨)について回る評価は良いものばかりではありません。
しかし、高杉晋作や伊藤博文と仲が良く、傍らで彼らの働きを支えたことは間違いなく、高杉晋作が亡くなった後は、残された愛人・おうのに資金援助をして東行庵を建てたり、元藩主であった毛利家のために邸宅を建てたりもしています。
現在、防府市にある毛利博物館(毛利邸)がそれに当たり、広大な庭と立派な屋敷を誇る毛利邸を見ると、井上聞多がいかに元藩主である毛利家を大切にしていたかが分かります。
井上聞多襲撃事件
禁門の変の後、長州藩は朝敵となり、幕府は第一次長州征伐に乗り出します。
その際長州藩内では、幕府に謝罪し、恭順の意志を示すべきだとする椋梨藤太らの俗論派と、表向きは恭順の意を示しながらも、一方で戦の準備を整えるという高杉晋作らの武備恭順派(正義派)が激論を戦わせていました。
この時、井上聞多も武備恭順を声高に主張し、藩主・毛利敬親の判断によって、最終的には武備恭順で一応の決着を見ます。
しかし、この会議が終わって帰宅する途中に井上聞多は暗闇に紛れた刺客に突如襲われます。
夜道で数人の男に襲いかかられ乱闘になると、聞多は抜刀する間もなく、複数太刀切り付けられてしまいます。
瀕死の重傷を負いながらも何とか逃げ切った聞多。
助けを呼んで家族の元まで運んでもらうと、聞多は自身の傷が深い事を悟り兄に介錯を頼みます。
この時、聞多の兄も、これ以上弟を苦しませにようにと覚悟を決めますが、母親が聞多に覆いかぶさり、助かる可能性があるのだから医者に治療してもらうべきだと懇願し、聞多の命を繋ぎとめたと言われています。
聞多は背中や顔、頭などに傷があり、その場に居合わせた医師が畳針を使って50針以上を縫うような大けがだったそうです。
瀕死の重傷だった聞多ですが、ここから回復し明治政府の要職を担うまでになります。
この時の母親の判断がなければ、聞多は志半ばで命を落とすことになっていましたね。
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襲撃の犯人との再会
明治政府で宮内省の図書頭という役職に就いた児玉愛二郎という人物がいました。
この児玉愛二郎は井上聞多が要職に引き上げたのですが、実はこの児玉愛二郎が聞多を襲撃した犯人でした。
児玉愛二郎は襲撃から30年も経った後に聞多に襲撃の犯人は自分だと名乗り出たようです。
児玉愛二郎は知人を介して謝罪したそうですが、30年も事実を隠し続け、何食わぬ顔で聞多と接していたとは正直驚きです。
ただ、井上聞多はその事を咎めることもなく許したと言われています。
そして、この時の児玉愛二郎の証言で実行犯が特定され、襲撃事件に中井栄次郎という人物がいたことが分かります。
この中井栄次郎、襲撃の際に一番に聞多に襲いかかった人物なのですが、実は中井栄次郎は俗論派のトップ、椋梨藤太の次男でした。
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自分を瀕死の状態にまで追いつめた犯人を知った時、井上聞多はどういう心境だったのでしょう?
そして何より、30年も事実を隠し通していた児玉愛二郎を許してしまうところにも、井上聞多の器の大きさを感じます。
