黒田長政が糸姫を離縁して栄姫を後妻にした理由!!

2019-12-26

軍師官兵衛の中では茶々や糸姫といった女性が活躍しています。

そこで、軍師官兵衛で活躍する戦国の女性にもスポットを当ててみたいと思います。

 

今回は黒田長政が最初の妻・糸姫を離縁して、迎えた2人目の妻、徳川家康の養女である栄姫について。

この離縁と結婚には政治的、外交的な思惑が絡み、蜂須賀家に戻った最初の嫁である糸姫は無念の思いを抱いたものと思われますが、2人目の妻となった栄姫とはどんな人物だったのでしょうか?

 

栄姫とは?

官兵衛は生涯、側室をもたなかった戦国武将として知られています。

しかし、息子である長政は最初に蜂須賀小六(蜂須賀正勝)の娘である糸姫を正室に迎えた後、離縁し、徳川家康の養女である栄姫を後妻に迎えました。

栄姫は保科家から徳川家康の養女となり、長政の元へ嫁ぎます。

 

栄姫の実家である保科家は信濃の武将でしたが、当時快進撃を続けていた武田家の傘下に入ります。

武田信玄、勝頼と二代にわたって仕えますが、勝頼はあの長篠の戦いで信長に大敗を喫し、それ以降あっという間に壊滅してしまったため、保科家は徳川家康の配下になります。

 

もっとも、家康は長篠の戦いの後、武田家の遺臣を保護していたので、保科家が保護されるのも納得がいきますね。

それ以降も保科家は家康のもとで大事に扱われ、江戸幕府では会津藩主として名をはせることになり、前大河ドラマの「八重の桜」などで出てきた会津藩の祖となったのです。

 

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徳川家康の豊臣大名の取り込み

関ヶ原の合戦の前、石田三成ら文官派と加藤清正ら武断派で大きく対立していました。

加藤清正らと同じく武断派である黒田長政は家康との距離が近くなり、一方の家康も豊臣恩顧の大名の取り込みに力を入れるようになります。

 

家康は上杉景勝に謀反の疑いがあるとして会津討伐の兵を挙げますが、その最中に養女であった栄姫と長政の婚姻を結びます。

会津討伐によって石田三成が挙兵することを予測していた家康としては少しでも早く、黒田家との繋がりを強めておきたかったようですね。

 

長政が栄姫を妻に迎えた理由

一方の長政も、何故、わざわざ糸姫と離縁してまで、栄姫と婚姻を結んだのでしょうか?

それはやはり、長政としても黒田家を残すという大きな役割のためだったと考えるのが普通です。

 

長政自身も家康に心酔していた部分があるのか、積極的に親交を深めているようなので、この家康からの申し出は嬉しかったのかもしれません。

さらに家康が、自分の大事な養女をお嫁に出すくらいですから、長政もそれなりの対応をしなければならなかったという見方をすることができます。

 

長政は官兵衛と違い、身内に対してもドライで物事を割り切って考える部分があるので、次の天下人を家康と見定めての行動だったのは間違いないでしょうね。

 

関ヶ原の合戦後も長政は義父となった家康に忠実に仕え、その地位を盤石なものへと変えていきます。

 

一方で、糸姫の実家である蜂須賀家も親家康派ではありましたが、さすがに糸姫を一方的に離縁されたとなれば面子が丸つぶれです。

この事が影響して、両家は100年近く絶交状態が続くことになりますが、秀吉の重臣であった蜂須賀氏の娘である糸姫と離縁してでも、徳川家との絆を深めることの方が得策だと長政は考えたようです。