吉田松陰の叔父・玉木文之進の壮絶な最期!介錯を務めた意外な人物とは?
今回取り上げるのは、吉田松陰の基礎を作った玉木文之進。
苛烈な性格とスパルタ教育で知られる松陰の叔父さんです。
松下村塾の元祖・玉木文之進
玉木文之進は吉田松陰の父親の弟にあたり、実の叔父でした。
ところで杉家のなかで、次男の吉田松陰のみ吉田姓なのは何故なのでしょう?
杉家はもともと吉田家の分家で、松陰の叔父の大介が吉田家を継いでいました。
そして、松陰は幼少のころに叔父・大介の養子になっていました。
ところが、養父大介が松陰の5歳のとき病死してしまったために、松陰は幼くして吉田家の当主となり、杉家で育てられたというのがその理由です。
玉木文之進は長州藩士でしたが、無役でいつも自宅にいました。
時間が有り余っていたため、天保13年(1842年)「松下村塾」という家塾をひらきました。
吉田松陰が12歳のときです。
玉木文之進はとんでもないスパルタ教育!?
玉木文之進は数年後、長州藩の役職に就いたためにいったん松下村塾を閉じましたが、吉田松陰が藩の命令で25歳のとき自宅での禁固命令を受けたとき、この松下村塾を再開させました。
松下村塾とは、玉木文之進が始め、吉田松陰が受け継いだものだったのです。
吉田松陰は、叔父である玉木文之進が松下村塾をひらく前から、玉木文之進から個人教授を受けていました。
玉木文之進は、まじめで厳格な人物でしたが、ときどき魔王のように荒れたそうです。
松陰に対して、飛び上がるなり松陰を殴り倒すことがしばしばあり、たいていの場合、松陰には何のことか理由がわからなかったそうです。
松陰が殴られたあと起き上がると、玉木文之進は根掘り葉掘りその理由を説明したそうですが、些細な理由ばかりだったそうです。
書物の開き方がぞんざいであったとか、書物を持つとき、肘が緩んでいたとか、そういった形式的な理由が多かったそうです。
「形は心である」と、玉木文之進はよく言っていたそうです。
形式から精神に入るという教育思想の持ち主だったのですね。
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玉木文之進の性格
さらに過激な逸話があります。
ある年の夏。暑い日に松陰は大きな百姓笠をかぶっていましたが、暑さで顔じゅうが汗で濡れ、顔にハエがたかってたまらなくかゆかった。
松陰は、たまらず手で顔を掻いたらしいのですが、これが玉木文之進の逆鱗に触れました。
「それでも侍の子か!」
と声をあげるなり、松陰を激しく折檻したそうです。
吉田松陰は後年、玉木文之進の苛烈な教育態度について「よくあのとき死ななかったものだ」と述懐したそうです。
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文之進の理念 侍は滅私奉公であれ
文之進が松陰に語ったとされる言葉があります。
「侍は作るものだ。生まれるものではない」。
私利私欲を捨て、公儀に尽くすことが侍の務めである。
教育とはそれを身につけさせること。
これこそが文之進の理念でした。
そして松陰に、その理念でもって徹底的に鍛え上げます。
勉学中に虫に刺され頬を掻いてしまうことは、勉学(=公儀に役立つ人間になるためにするもの)より自身の欲望(=頬が痒い)を優先したことになる。
すなわち、滅私奉公に反する行為であると文之進は見なしたのです。
そうした文之進の指導は、松陰の根幹を作っていくことになります。
成人した松陰は、外国へ密航を企てたり、幕府を糾弾したりして投獄、処刑されてしまいます。
しかしそれらは、日本を外国からの脅威から守りたい、その為には自身の命も惜しまないといった、究極の滅私奉公の表れではないでしょうか。
文之進の教えを松陰はずっと守り続けたのでした。
松下村塾と萩の乱
吉田松陰亡きあとの松下村塾は、明治維新後、創始者である玉木文之進によって、再開されます。
ちなみに、明治期を代表する軍人で日露戦争の英雄となる乃木希典も玉木文之進に学んでいた時期があるので、松陰とは同じ師に学んだ兄弟弟子という事になります。
この文之進が松下村塾を主宰していた時期に、松陰時代の松下村塾で学び、高杉晋作らと活動を共にしていた前原一誠が、新政府で徴兵制を支持する山県有朋と対峙し、参議を辞職して地元萩に戻っきます。
当時は廃刀令や武士の秩禄処分(給料の打ち切り)などが行われ、明治政府に不満を持つ不平士族は日本全国に存在していました。
それは萩も例外ではなく、その拠点になっていたのが「松下村塾」でした。
そこに明治政府の方針を否定した前原一誠が戻ってくとなると、不平士族が前原に武士の窮状を訴えるのは当然の流れです。
後輩たちの訴えを聞いた前原一誠は、熊本での神風連の乱の勃発に呼応して挙兵し、萩の乱を起こします。
反乱に参加した200名の中には、前原や正誼を始めとした「松下村塾」の生徒が多数含まれていました。
関連記事⇒前原一誠の最期と萩の乱が玉木文之進に与えた波紋!!
文之進の最期!介錯は松陰の妹千代(お芳)
自分の主宰する塾から反乱の徒を出してしまった。
このことに責任を感じた文之進は、自身の一命をもってけじめをつけることを選択し、自宅から坂を登ったところにある墓所に向かいます。
ここは玉木家代々の墓所となっている場所で、吉田松陰の遺髪が葬られているお墓がある場所でもあります。
そして、反乱の徒を自分の門下生から出してしまった事を先祖の墓前で詫び、文之進は切腹して果てます。
その時、介錯をしたのは松陰の妹の千代(お芳)でした。
関連記事⇒明治になって文の姉・千代が語った兄・吉田松陰の逸話!!
千代は後年、その時の様子を斉藤鹿三郎という松陰研究家に語っています。
この日、叔父は私をよび、自分は申し訳ないから先祖の墓前で切腹する、ついては介錯をたのむと申されました。
私もかねて叔父の気性を知っていますから、おとめもせず、お約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。
私はちょうど四十でありました。
わらじをはき、すそを端折って後にまわり、介錯をしました。
そのときは気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。
介錯をしたあとは、夢のようでありました。
※司馬遼太郎著「世に棲む日々」より引用。
反乱に弟子たちが加担したこと、つまり自身の教育への責任を強く感じた文之進のけじめでした。
お芳も回想する通り、文之進らしい最期ですね。