3分で分かる!!徳川家康が恐れた武将真田昌幸!!

真田信繁(幸村)の父親にして、徳川家康が恐れたとされる武将・真田昌幸。

 

本来は真田家の家督を継ぐ立場にはなかったのですが、武田家滅亡で運命が大きく変わり、歴史の表舞台へと飛び出していく事になります。

 

迫りくる徳川の大軍を2度も上田城から敗走させた戦略と戦術は、息子の信繁にも受け継がれ、徳川家康の天敵として真田家は名を上げることになります。

 

今回は真田信繁の父親・昌幸について迫ってみたいと思います。

 

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武田信玄の下で

真田昌幸は名将として武田信玄に仕えた真田幸隆の3男として生まれます。

 

関連記事⇒真田昌幸の父幸綱(幸隆)が武田信玄の下で挙げた功績!!

 

昌幸の兄、信綱、昌輝も武勇に優れた名将であり、武田家の中核を担っていたため、昌幸は武藤家に養子に出され、武藤喜兵衛として足軽大将を務めていました。

 

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武田信玄からの信頼も厚く、三方が原の戦いにも参戦しています。

 

そんな昌幸の運命を変える出来事が起こったのは、信玄が亡くなった後の事でした。

 

信玄の跡を継いだ武田勝頼は、長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫してしまいます。

 

この時に兄の信綱と昌輝は大いに織田・徳川連合軍を苦しめたと言われていますが、両軍の勢いの前に最期の時を迎えることになってしまいます。

 

2人の兄が亡くなったことで、昌幸が真田性に復帰し、真田家の当主として苦難の道を歩んでいく事になります。

 

関連記事⇒武藤喜兵衛と名乗り武田信玄に仕えていた頃の真田昌幸!!

 

真田昌幸の性格

真田昌幸を表現する言葉として『表裏比興(ひょうりひきょう)の者』というものがあります。

 

これは、表裏のあるくわせもの、一筋縄ではいかない策士といった意味です。

 

昌幸の領地は上杉家、徳川家、北条家の大勢力に挟まれた地域にありました。

 

そのため、それぞれの勢力に臣従しては裏切り、裏切ってはまた戻るといった感じで、次々に主を変えていました。

 

織田信長の傘下に入ったこともあり、豊臣秀吉天下を取ってからは豊臣家の下で働いています。

 

この時に豊臣秀吉の家臣であった大谷吉継の娘と次男・信繁を結婚させています。

 

関連記事⇒真田信繁(幸村)に娘を嫁がせた名将・大谷吉継!!

 

弱小大名であった真田家を守るために、次々と主を変えて生き延びていく。

 

これが真田昌幸が『表裏比興(ひょうりひきょう)の者』と呼ばれる所以です。

 

そのため、ずる賢く、自分の事しか考えていない人物という風に見られがちですが、収穫の厳しい時には年貢を半減するなど、領民に対しては慈愛をもって接しています。

 

戦国の世を生き残るために謀略を駆使した昌幸ですが、性格的には人の気持ちをくみ取る優しさを持った武将だったようです。

 

徳川家康との関係

真田昌幸を語る時に外せないのが徳川家康との関係。

 

詳細に関しては改めて記事にしますが、昌幸は上田城に押し寄せた徳川の大軍を2度も敗走させています。

 

関連記事⇒第一次上田合戦_上田城の戦いに見る真田昌幸の戦略!!

 

このどちらにも徳川家康は出陣していないので直接対決ではありませんが、1度目の上田城の戦いでは鳥居元忠などの徳川家の精鋭武将を、2度目の戦いでは徳川秀忠率いる徳川本隊に完勝しています。

 

上田合戦はどちらも真田家の方が圧倒的不利な状況で、第1次上田城の戦いでは徳川勢7000に対して真田は1200、第2次上田城の戦いでは徳川勢38000に対して真田は3500という兵力でした。

 

この状況で徳川軍に勝てたのは、昌幸が心血を注いで造った上田城と、智略の限りを尽くした戦略と戦術によるものです。

 

直接対決ではないにしても、徳川家康はこの両上田合戦で昌幸の前に手痛い失態を犯していますが、この遺恨は昌幸の子供・信繁(幸村)が活躍する大阪冬の陣、夏の陣に引き継がれていきます。

 

最期

関ヶ原の合戦で石田三成に付いた真田昌幸と信繁親子は領地を没収され、高野山に配流となります。

 

やがて高野山から九度山に移されますが、その生活はとても困窮したものでした。

 

国許や知人の援助に頼りながらの生活はとても心許ないものだったようです。

 

この時ばかりは昌幸や信繁の心もすっかり折れてしまっていたようで、国許にお金を催促する手紙や、弱音を吐く信繁の手紙が今も残っています。

 

謀略の限りを尽くした真田昌幸。

 

戦国大名たちからは信頼されていなかったのか、その末路はかなり寂しいものだったようです。

 

この九度山の地で真田昌幸は65年の生涯(諸説あり)を閉じています。

 

最後まで徳川家に対して放免を願い出て、信州に帰る事を願っていた昌幸でしたが、その願いは最後まで叶えられることはありませんでした。

 

昌幸の遺体は火葬され、地元である信州上田に墓所が築かれました。

 

関連記事⇒真田昌幸の九度山での困窮生活と最期の様子!!

 

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その他の逸話

真田昌幸は武田信玄に対しては尊敬の念を抱いていたようで、幸村として有名な息子に付けた『信繁』という名前は、信玄の弟で名将の誉れが高い武田信繁から取ったものだとされています。

 

また、昌幸に2度も煮え湯を飲まされていた徳川家康が、大阪の陣で真田が大阪城に入ったと聞き、「親(昌幸)か?子(信繁)か?」と取り乱したそうです。

 

この時既に真田昌幸は亡くなっていましたが、その状況を家康が知らなかったとしたら、この慌てようで、家康にとって昌幸がどれほどの脅威だったかが分かります。

 

 

真田丸で演じるのは草刈正雄

大河ドラマ真田丸では草刈正雄さんが本当にカッコいい真田昌幸を演じています。

 

真田丸での昌幸は天性の感覚人間で、家族にも平気で嘘をつく2枚舌の人物として描かれています。

 

息子の信幸や信繁に弱い部分を見せることがあってもすぐに自分を取り戻し、策を練って真田家が生き残る方法を考えるという根っからの策士。

 

基本的にはポジティブで『俺は感だけで生きている』と自分で言うほど、時代の流れを嗅ぎ取る嗅覚には自信を持っています。

 

昌幸を演じる草刈正雄さんは、真田太平記というドラマで真田信繁を演じた役者さん。

 

それが30年経って信繁の父親の昌幸を演じるのですから感慨深いものがあるでしょうね。

 

ちなみにその時真田昌幸を演じたのが丹波哲郎さん。

 

草刈さんは真田丸での昌幸の役作りをする際、丹波さんの演じた昌幸が頭から離れない時期があったそうです。

 

そうして悩みながら生み出された草刈昌幸は本当にかっこいいですよね。

 

関連記事⇒真田昌幸の九度山での困窮生活と最期の様子!!

 

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