伊藤博文が青春時代を過ごした旧宅の写真!!

松下村塾で吉田松陰の教えを受けて幕末を生き抜き、初代総理大臣にまで登りつめた伊藤俊輔

 

俊輔は若い頃の名前なので伊藤博文といった方がわかりやすいですね。

 

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允という明治維新の三傑が亡くなった後に、明治政府を先頭で指揮したのがこの伊藤でした。

 

今回は「花燃ゆの舞台」と題して、現在も萩に残っている、伊藤博文が14歳~28歳まで過ごした旧宅をご紹介します。

 

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伊藤博文

伊藤博文の旧宅は松下村塾から程近い場所にあり、ここから松下村塾まで通っていました。

 

ちなみに松下村塾は玉木文之進が創立し、久保五郎左衛門⇒吉田松陰へと引き継がれていますが、伊藤博文は久保五郎左衛門の松下村塾(寺子屋のような感じの塾)にも通っていました。

 

そこでライバルだったのか吉田稔麿で、書道では伊藤のほうが上だったようですが、成績は稔麿の方が優れていたと言われています。

 

後に、明治政府を指導する立場になる伊藤博文よりも優れていたとは、さすがに松陰の松下村塾の四天王と呼ばれるだけの事はありますね。

 

吉田稔麿、恐るべしです。

 

ただ、吉田松陰も伊藤のことを「才劣り学幼きも、質直にして華なし、僕すこぶるこれを愛す」と語っているように、生まれつき才能に恵まれていたというよりは、周りの人に可愛がられながらその才能を開花させていったという感じがしています。

 

そして、その人格形成に大きな影響を与えたのが桂小五郎(木戸孝允)と高杉晋作でした。

 

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桂小五郎と高杉晋作

伊藤は若い頃に桂小五郎に従って行動を共にしていました。

 

そして共に江戸に上り、この時に井上馨らと出会うなど人脈を築き、見聞を広めています。

 

一方の高杉晋作とは、幼い頃からの知り合いで、晋作はよき兄貴分といった感じでした。

 

共に英国公使館を焼き討ちするなど、晋作から受けた影響は大きく、第一次長州征伐の際に、高杉晋作が劣勢の中で挙兵の意志を表明すると、力士隊を率いて一番に駆けつけています。

 

こういった逸話を見ると、伊藤も晋作に対して尊敬の念を抱いていたことが分かりますね。

 

身分が低かったため松下村塾の外から講義を聞いていたという伊藤博文。

 

高杉晋作と桂小五郎という2人が持つカリスマ性に憧れを抱きながら行動を供にしていたのかもしれませんね。

 

伊藤博文と高杉晋作

中央が高杉晋作で右が若き日の伊藤俊輔(博文)

 

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伊藤博文旧宅

 

萩にある伊藤博文旧宅の外観。

 

伊藤博文旧宅外観

 

伊藤博文旧宅玄関

 

伊藤博文旧宅裏口

 

旧宅は開放されているので上がる事はできませんが、内部も見学する事ができます。

 

伊藤博文旧宅室内

 

伊藤博文旧宅内部のかまど

 

まとめ

実際に伊藤博文がここで暮らしていたんだなと思うと感慨深いものがあります。

この旧宅の隣には明治時代に伊藤博文が東京で住んでいた建物が移築されているのですが、2つの建物を比較すると伊藤がどれだけ大出世したのかという事が良く分かります。

 

農家の出から総理大臣へ。

伊藤博文のこの出世には、農民から天下統一を果たし、関白となった豊臣秀吉に通じるものがあるかもしれませんね。

 

伊藤利助の旧宅は、いかにも農民の家という感じがしますが、木戸孝允や高杉晋作の旧宅と比べると、どれだけ身分が違ったのかが良く分かります。

 

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