文の奥入りと毛利都美子、銀姫との出会い!!

久坂玄をが禁門の変で亡くした文は、ほどなくして毛利家に仕えることになります。

 

それは毛利敬親の後を継ぐ毛利元徳の正室・銀姫の身の回りの世話をする女中としてでした。

 

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毛利都美子

長州藩の13代藩主である毛利敬親には都美子(都美姫)という正室がいました。

 

都美子は前藩主・斉広の娘で、敬親の妻となってからは毛利家の奥で女性を取りまとめていました。

 

その際、藩の財政難を知っていた敬親が質素倹約に努めていたため、都美子も奥の女性たちに質素倹約を徹底させたと言われています。

 

この事から敬親を陰から支えた賢妻とされています。

 

文の奥入り

敬親と都美子は子供をもうけるのですが、その子供は幼くしてなくなってしまい、その後、跡継ぎは誕生しませんでした。

 

そのため敬親は銀姫を養子として迎え、銀姫の婿に支藩であった徳山藩の毛利元徳を選びます。

 

関連記事⇒毛利元徳_文を嫡男の守役にした長州藩最後の藩主!!

 

銀姫と元徳は夫婦仲がとても良く、結婚から8年と少し時間はかかりましたが、後に毛利元昭と名乗る興丸という子供を授かっています。

 

そして、この元徳と正室の銀姫に仕え、嫡男の興丸(後の毛利元昭)の守役となったのが、禁門の変で久坂玄瑞を無くしたばかりの文でした。

 

奥に入るという事は、都美子や奥の権力者・園山とも上手くやっていかなければいけない女の世界に飛び込むという事。

 

しかし、この奥の中で信頼を勝ち得ていく文を見ると、人間としての魅力があり、人々から一目置かれる人物であったことが分かります。

 

元徳の正室・銀姫が文と同い年で、お互いの距離感が近かったという事もあったのかもしれませんが、藩主の嫡男の守役になるという事は、よほど信頼が高いか、教養に優れていないと難しいはずです。

 

資料には残っていませんが、世話好きな文は敬親の正室・都美子からも気に入られていたのかもしれません。

萩から山口へ

文が安子(銀姫)に使えるようになった時期は、毛利家が萩から山口に藩庁を移していた時期と重なります。

 

そのためこの頃の文は多忙を極めていたはずです。

 

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若くして夫を亡くし、失意のどん底にあった文にとっては忙しいことで気もまぎれて良かったのかもしれません。

 

興丸が元昭と名乗り家督を継ぐ時には、版籍奉還が行われ長州藩はなくなっていましたが、元昭は公爵となり、公共事業などに尽力したと伝わっています。

 

この毛利宗家を相続した元昭の人格形成に吉田松陰の妹である文が関わっていると思うと、何か不思議な感じがします。

 

銀姫の子供・毛利元昭

銀姫が元昭を生んだ時期は禁門の変や長州征伐が行なわれた、長州藩にとって激動の時代でした。

 

多忙を極める元徳は萩城を留守にすることが増えていきますが、銀姫は敬親や元徳の留守をしっかりと守り、元昭の教育にも力を入れていたようです。

 

そんな銀姫の愛情を一身に受けて育った元昭は、廃藩置県で長州藩が消滅したあと、貴族院議員として国の政治に関わっていきます。

 

また、銀姫も明治の世では大日本婦人教育協会会長や、日本赤十字社の要職を務め、社会貢献のために寄与しています。

 

そんな銀姫に育てられた元昭は、時代の節目に生まれたため、藩主と言う立場になることはありませんでしたが、もし長州藩が存続していたら名君と呼ばれる存在になっていたかもしれません。

 

現在、山口県の防府市に残っている毛利氏庭園(多々良邸)は井上聞多が選定した場所に元昭が建設したもので、毛利氏庭園に訪れると当時の元昭の暮らしぶりを垣間見る事ができます。

 

関連記事⇒井上聞多(馨)を襲撃した実行犯は意外な人物!?

 

実際に現地を訪れてみると、広大な土地の広さと庭の見事さに度肝を抜かれると思いますよ。

 

毛利氏庭園

 

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