豊臣秀吉が子供の頃から育て、猛将と呼ばれるまでに成長した加藤清正。

豊臣秀吉から福島正則と共に賤ヶ岳の七本槍に選ばれ、朝鮮出兵の際には虎退治を行った武将として有名です。

 

また、義に厚い武将として今でも人気が高く、肥前名護屋城、江戸城、名古屋城の築城に携わるなど、築城の名手とても知られています。

 

 

武功も政治手腕も人望もある武将として、私も大好きな武将の1人なのですが、今回は、そんな加藤清正が部下に言い放った名言と、いくつかのエピソードをご紹介したいと思います。

 

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加藤清正の生涯を分りやすく紹介

加藤清正は現在の愛知県名古屋市中村区で生まれました。

豊臣秀吉と加藤清正の母同士は従姉妹の間柄で、ふたりの年齢差は25歳ほど離れていたので、おじと甥という関係性でした。

 

小さい頃から体格がよくて武芸に長けていて、身長は190㎝。

トレードマークの長烏帽子形兜という長い兜をかぶっていたので、戦場ではかなり大きな武将に見えていたはずです。

 

 

加藤清正の父、清忠がなくなったのは彼が3歳のとき。

これにより10歳で秀吉のもとに仕えることになります。

 

秀吉は彼を我が子のように可愛いがり、彼もまた数々の武功を挙げることで恩返しをします。

秀吉の島津討伐にも参加し、その活躍で28歳にして肥後国(現在の熊本県)19万5千石の大名となります。

 

こんなにも秀吉に尽くしてきた加藤清正ですが、秀吉亡き後は一転して徳川家康側につくことになります。

関ヶ原の戦いでは東軍として西軍の城を次々と撃破。

この活躍が認められて52万石の領主になりました。

 

しかし、晩年は徳川家康に従ってはいても豊臣への忠誠も忘れなかったといわれており、二条城で徳川家康と豊臣秀頼の和解を実現させたという史料も残っています。

 

この和解に参加した帰りの船内で高熱に見舞われ、そのまま回復することなく熊本城で息をひきとります。

享年50歳。

 

加藤清正は大阪の陣での豊臣の滅亡を見ることなくこの世を去ります。

 

加藤清正が虎退治したって本当?

加藤清正を語る際に必ず出てくる虎退治の逸話。

 

朝鮮に出兵している最中、加藤清正の陣の近くに人喰い虎が出没して馬や家臣が殺されてしまうことが度々ありました。

その虎を清正が槍でついて殺したと言われ、「加藤清正=虎退治」のイメージが出来上がります。

 

虎の肉は薬になるという話があり、清正は実際に虎の肉を塩漬けにして秀吉に送っています。

ただ、槍で退治したのではなく、鉄砲で仕留めたというのが本当のところのようです。

 

とにかく戦上手だった清正

数々の武功をあげた加藤清正。

その中でも特に有名なのが賤ヶ岳の戦いです。

 

織田信長亡き後の実権を握るために柴田勝家と戦ったこの戦いに加藤清正も参加。

敵将の山路正国を討ち取り、秀吉から「賤ヶ岳の七本槍」の一人に選ばれています。

 

その活躍により与えられた所領は福島正則の5千石に次ぐ3千石でした。

 

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また、加藤清正の武功を語るのに外せないのが朝鮮出兵での活躍。

 

慶長の役で、浅野左京(長慶)たちがいる蔚山(ウルサン)城が明・朝鮮連合軍に包囲されます。

別の城にいた清正は「今、左京を討たせては武士の一分が立たない」といって急行して浅野一緒に籠城します。

 

水も食糧もなくひどい飢餓に襲われて苦しい中でも加藤清正は弱音を吐かず、大将だけに配られた一膳飯米をみんなに分け与えながら「必ず援軍が来る」と励まし続けたそうです。

この言葉通りやがて籠城戦は実を結び、苦しい時に激励してくれた清正に感謝の涙を流したと伝えられています。

 

熊本では、今も彼を「清正公(せいしょこ)さん」と呼んで慕っています。

 

さらに、加藤清正は常に気を緩めることをしなかったともいわれています。

見方を迎えに行くときにも完全武装で現れ、驚かれたという話も伝わっています。

 

彼が気を緩めることで、家臣にまでその油断が伝わってしまうことを恐れたからともいわれているようです。

 

加藤清正が作った名城「熊本城」

 武功により熊本城を居城とした加藤清正は、さっそく城の改修に取り掛かかります。

 

15年をかけて城が完成すると名前も「隈本」から「熊本」へと改名。

彼が熊本城を難攻不落と言われるような頑丈なものにしたのは、徳川家康への対策だったと考えられます。

 

関ヶ原の合戦で勝利をした家康は、かつての主君だった豊臣家の財力を65万石にまで減らし、一介の大名として扱ったため、加藤清正は「秀頼と家康が戦う日が来る」と、見通していたのです。

 

熊本城には急斜面の石垣や天守閣、櫓に設けられた多数の石落としがあり、石垣の中には抜け道が作られるなど防御は厳重でした。

そして熊本城の改修が終わるとその近くにお寺をつくります。

 

その門前には栗の木を、城内には銀杏を、畳には里芋の茎を使うなどして、籠城時の非常食として備えていたそうです。

さらに、敷地内に120箇所の井戸も掘っていました。

 

これは朝鮮の戦いで苦しい籠城戦をした経験から考えついた対策のようです。

 

熊本城は西南戦争の際に西郷軍によって包囲されますが、結局、西郷軍は最後まで攻め落とすことができませんでした。

それほどまでに清正の築城した熊本城は、大軍で攻めにくく、少数でも守り易い実戦向きの造りになっていました。

 

現在でも熊本城に訪れてみると、現存する石垣の高さから防御力の凄さというのが実感できると思います。

 

 

後世、西南戦争で熊本城に攻め込んだ西郷隆盛は「官軍ではなく清正公に負けた」と述べたという有名なエピソードもあります。

 

清正は熊本城の他にも、名護屋城や江戸城など、数多くの築城に携わり、黒田官兵衛、藤堂高虎と並んで築城の名手と呼ばれます。

 

 

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家臣に対する加藤清正の名言

朝鮮に出兵していた加藤清正は、戦闘中であった軍を日没のため引き上げる必要がありました。

そこで陣中を見回し、後ろのほうに控えていた庄司という家臣に軍を引き上げてくるように命じます。

 

命令を受けた庄司は、戦闘中の軍の間に自軍で割って入り、そのまま引き上げさせることに成功します。

その時、加藤清正が一人の家臣の様子がおかしいことに気づき声をかけます。

 

するとその家臣は、

 

「軍を撤退させるという大事な役目を、私より遥か後ろにいた庄司に命じられた。」

「それは私が庄司に劣っていると思われているからではないのか?」

「それが悔しくてしかたない。」

 

と、涙を流して訴えました。

 

この家臣のほうが序列が上だったのか、自分を素通りして遥か後ろにいた庄司に命じたことが許せなかったようです。

武士の世界というのは名誉や序列にこだわるものなのかも知れませんが、なんとも負けず嫌いで熱い家臣ですよね(笑)。

 

しかし、それを聞いた清正は笑いながらこう言ったといいます。

 

「お前達はどちらも大切な我が家臣。使うところはその器に従う。」

 

「もしも敵が強く、勇敢に攻めかからなければいけない場面であればお前に命じたであろう。お前の実力であれば敵を蹴散らすのも造作ないはず。ただ今回のように兵を引き上げさせるのであれば庄司が適任である。」

 

これを聞いた家臣は「面目が立ちました。」と怒りが収まったそうです。

こうして、部下の面子をしっかりと立ててあげるところが、清正の武将としての器を現していると思います。

 

優劣ではなく適正で使い分けているだけで、場面が変われば命じる人物もかわるとフォローされれば、この家臣もそんなに悪い気はしませんよね?

 

しかしこれは、とっさに出たフォローではなく、清正が常日頃から「適材適所」で人を使わなければ成果がでないと考えてたからだと言われています。

 

大将たるもの、常に部下の適正を見極める目が必要です。

 

『使うところはその器に従う』

 

部下を持つ人は、自信を持って部下に言ってみたい名言だと思います。

そして何より、家臣の面子を立ててあげる加藤清正の心遣いも見習いたいところですね。

 

石田三成を襲撃した中心人物

羽柴秀吉の下で戦場に出て武功を上げた福島正則や加藤清正は武断派の武将と呼ばれています。

一方の石田三成や大谷吉継、小西行長ら、政務を得意とした武将は文治派と呼ばれています。

 

この武断派というのはとにかく石田三成と仲が悪く、お互いに相容れない関係でした。

戦場の最前線で戦う武断派の武将達にとって、戦場での武功もないのに大きな顔をする三成が許せなかったようです。

 

今で言うと、外回りの営業マンvs内勤の事務・経理担当の関係に近いと思います。

 

この加藤清正、福島正則、黒田長政らの武断派と石田三成らの文治派の対立は前田利家が両者の調整役となっていました。

しかし、前田利家が亡くなると武断派の武将が石田三成を襲撃するという事件が起こります。

 

襲撃に加わったと言われるのは下記の武将達で、資料により異なりますが、福島正則、加藤清正、黒田長政は間違いなく参加していたと思われます(と言っても自ら襲撃したのではなく、軍勢を派遣したという意味)。

 

 

(資料によって異なりますが、このメンバーの中の7人(七将)が三成を襲撃に参加)

 

しかも前田利家が亡くなったその日に、襲撃が実行されているので、七将の三成に対する憎しみは相当なものだった事が分かります。

 

黒田官兵衛との関係

猛将として知られ、政治手腕にも定評のあった加藤清正。

大河ドラマの主人公となった黒田官兵衛とはどんな関係だったのでしょうか?

 

実は、清正が関が原の合戦の前に官兵衛に送った手紙があります。

 

「自分が秀吉様に受けた恩は貴老(官兵衛)よりもはるかに大きく、三成たちよりも深いものである。しかし三成とは仲が悪いのは周知のとおりで、三成に加勢するのは見苦しい結果となる。貴老のお考えどおりに分別したい」

 

つまり、官兵衛の考えに従うと言っているのです。

この手紙からは清正が官兵衛の武将としての才に、一定の信頼を置いていたというのが伺えます。

 

そして、官兵衛も自分にはない、武勇を誇る清正には一目置いていたのではないかと私は思っています。

清正と同世代の石田三成や小西行長が官兵衛の事を軽んじていたのに比べると、清正は官兵衛に近い距離感である事が分かります。

 

黒田官兵衛の指揮で加藤清正が先陣を切って戦うというシーンがあったとすれば、歴史好きの人にはたまらない、組み合わせですね。

 

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