熊本城を築城した加藤清正の人気の理由と家臣に対する名言!!

豊臣秀吉が子供の頃から育て、猛将と呼ばれるまでに成長した加藤清正。

 

豊臣秀吉から福島正則と共に賤ヶ岳の七本槍に選ばれ、朝鮮出兵の際には虎退治を行った武将として有名です。

 

また、義に厚い武将として今でも人気が高く、肥前名護屋城、江戸城、名古屋城の築城に携わるなど、築城の名手とても知られています。

 

武功も政治手腕も人望もある武将として、私も大好きな武将の1人なのですが、今回は、そんな加藤清正が部下に言い放った名言と、いくつかのエピソードをご紹介したいと思います。

 

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家臣の涙

朝鮮に出兵していた加藤清正は、戦闘中であった軍を日没のため引き上げる必要がありました。

 

そこで、陣中を見回し、後ろのほうに控えていた庄司という家臣に軍を引き上げてくるように命じます。

 

命令を受けた庄司は、戦闘中の軍の間に自軍で割って入り、そのまま引き上げさせることに成功します。

 

その時、加藤清正が一人の家臣の様子がおかしいことに気づき声をかけます。

 

するとその家臣は、

 

「軍を撤退させるという大事な役目を、私より遥か後ろにいた庄司に命じられた。」

「それは私が庄司に劣っていると思われているからではないのか?」

「それが悔しくてしかたない。」

 

と、涙を流して訴えました。

 

この家臣のほうが序列が上だったのか、自分を素通りして遥か後ろにいた庄司に命じたことが許せなかったようですね。

 

武士の世界というのは名誉や序列にこだわるものなのかも知れませんが、なんとも負けず嫌いで熱い家臣です。

 

清正の名言

それを、聞いて清正は笑いながらこう言ったといいます。

 

「お前達は、どちらも大切な我が家臣。使うところはその器に従う。」

 

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「もしも敵が強く、勇敢に攻めかからなければいけない場面であればお前に命じたであろう。お前の実力であれば敵を蹴散らすのも造作ないはず。ただ今回のように兵を引き上げさせるのであれば庄司が適任である。」

 

これを聞いた家臣は「面目が立ちました。」と怒りが収まったそうです。

 

こうして、部下の面子をしっかりと立ててあげるところが、清正の武将としての器を現していると思います。

 

優劣ではなく適正で使い分けているだけで、場面が変われば命じる人物もかわるとフォローされれば、この家臣もそんなに悪い気はしませんよね。

 

しかしこれは、とっさに出たフォローではなく、清正が常日頃から「適材適所」で人を使わなければ成果がでないと考えてたからだと言われています。

 

大将たるもの、常に部下の適正を見極める目が必要です。

 

『使うところはその器に従う』

 

部下を持つ人は、自信を持って部下に言ってみたい名言だと思います。

 

そして何より、家臣の面子を立ててあげる加藤清正の心遣いも見習いたいところですね。

 

石田三成襲撃

羽柴秀吉の下で戦場に出て武功を上げた福島正則や加藤清正は武断派の武将と呼ばれています。

 

関連記事⇒酒乱の武将・福島正則!!広島城無断修築で改易!!

 

一方の石田三成や大谷吉継、小西行長ら、政務を得意とした武将は文治派と呼ばれています。

 

この武断派というのはとにかく石田三成と仲が悪く、お互いに相容れない関係でした。

 

戦場の最前線で戦う武断派の武将達にとって、戦場での武功もないのに大きな顔をする三成が許せなかったようです。

 

今で言うと、外回りの営業マンvs内勤の事務・経理担当の関係に近いと思います。

 

この加藤清正、福島正則、黒田長政らの武断派と石田三成らの文治派の対立は前田利家が両者の調整役となっていましたが、前田利家が亡くなると武断派の武将が石田三成を襲撃するという事件が起こります。

 

襲撃に加わったと言われるのは下記の武将達で、資料により異なりますが、福島正則、加藤清正、黒田長政は間違いなく参加していたと思われます(と言っても自ら襲撃したのではなく、軍勢を派遣したという意味)。

 

  • 福島正則
  • 加藤清正
  • 池田輝政
  • 細川忠興
  • 浅野幸長
  • 加藤嘉明
  • 黒田長政
  • 蜂須賀家政
  • 藤堂高虎
  • 脇坂安治

 

(資料によって異なりますが、このメンバーの中の7人(七将)が三成を襲撃に参加)

 

しかも前田利家が亡くなったその日に、襲撃が実行されているので、七将の三成に対する憎しみは相当なものだった事が分かります。

 

熊本城を築城

加藤清正が築いた難攻不落の名城として有名なのが熊本城です。

 

熊本城は西南戦争の際に西郷軍によって包囲されますが、結局、西郷軍は最後まで攻め落とすことができませんでした。

 

それほどまでに清正の築城した熊本城は、大軍で攻めにくく、少数でも守り易い実戦向きの造りになっていました。

 

現在でも熊本城に訪れてみると、現存する石垣の高さから防御力の凄さというのが実感できると思います。

 

また、清正は城下町の発展にも力を入れていて、熊本県内には現在も使われている清正による治水事業の遺構が残っています。

 

そして、何よりも印象的なのが、色々な場所に清正の銅像(どれも立派!!)が建っていること。

 

熊本市内だけでなく名古屋にも銅像があるところに清正の人気の高さが窺えます。

 

時代を超えても人々から慕われているという事は、清正の善政をしいたからだったからに違いありません。

 

築城の名手であり、豊臣家に忠誠を尽くした義の武将・加藤清正。

 

人気の秘密は能力の高さに加えて、人としての器の大きさにもあるようですね。

 

ちなみに朝鮮出兵の際に、虎退治をしたという話は、実際は虎を槍で突き伏せたりしたのではなく、火縄銃で仕留めたというのが本当のところだそうです。

 

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黒田官兵衛との関係

猛将として知られ、政治手腕にも定評のあった加藤清正ですが、大河ドラマの主人公となった黒田官兵衛とはどんな関係だったのでしょうか?

 

関連記事⇒天才軍師・竹中半兵衛と黒田官兵衛の違い!!

 

軍師官兵衛ファンとしてはかなり気になるところではあります。

 

その加藤清正と黒田官兵衛の関係ですが、清正が関が原の合戦の前に官兵衛に送った手紙があります。

 

「自分が秀吉様に受けた恩は、貴老(官兵衛)よりもはるかに大きく、三成たちよりも深いものである。しかし三成とは仲が悪いのは周知のとおりで、三成に加勢するのは見苦しい結果となる。貴老のお考えどおりに分別したい」

 

つまり、官兵衛の考えに従うと言っているのです。

 

この手紙からは清正が官兵衛の武将としての才に、一定の信頼を置いていたというのが伺えます。

 

そして、官兵衛も自分にはない、武勇を誇る清正には一目置いていたのではないかと私は思っています。

 

清正と同世代の石田三成や小西行長が官兵衛の事を軽んじていたのに比べると、清正は官兵衛に近い距離感である事が分かります。

 

黒田官兵衛の指揮で加藤清正が先陣を切って戦うというシーンがあったとすれば、歴史好きの人にはたまらない、組み合わせですね。

 

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One Response to “熊本城を築城した加藤清正の人気の理由と家臣に対する名言!!”

  1. 匿名 より:

    熊本県出身で愛着があったけど、大河をみて愛着が減った。

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