真田信繁(幸村)に娘を嫁がせた大谷吉継の最期!!

豊臣秀吉に「100万の兵を指揮させてみたい」と言わしめた武将・大谷吉継。

 

豊臣秀吉の下で武功を上げた武将ですが、戦場での槍働きを得意とする福島正則や加藤清正とは少し異なり、策略や兵を指揮して戦うことを得意としていました。

 

関ヶ原の合戦では徳川家康との仲が良かったにも関わらず、石田三成との友情に報いて西軍として戦った、義に厚い武将としても有名です。

 

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娘を真田信繁の嫁に

大谷吉継は娘を真田信繁に嫁がせているので、真田信繁にとっては義理の父親。

 

信繁の父親である真田昌幸も大谷吉継と同じ智略の将で、私の大好きな武将なのでこの2人に交流があったというのは個人的には嬉しい限りです。

 

信繁に嫁いだ吉継の娘の名前というのは正確には分かっておらず、竹林院という法名だけが伝わっています。

 

竹林院と信繁は多くの子供をもうけ、夫婦仲も良かったようです。

 

信繁が大阪の陣で亡くなってからは徳川家康の許しを得て、京都で暮らしたと伝わります。

 

関連記事⇒真田信繁の正室・春(竹林院)が子供にかけた最後の言葉!!

 

石田三成との友情

石田三成が実質的な大将となり、徳川家康と戦ったのが天下分け目の戦いと称された関ヶ原の戦いです。

 

豊臣家の一家臣であった石田三成が、当時最大の大名であった徳川家康に戦いを挑む。

 

どう考えても無謀なことでしたが、この無謀な戦いに挑むために三成が最も頼りにした武将が大谷吉継です。

 

大谷吉継は豊臣秀吉が「100万の軍勢を預けて指揮させてみたい」と言ったとされるほどの才覚の持ち主で、三成の親友であったとも言われています。

 

大谷吉継は最初、徳川家康に敵対することの無謀さを三成に伝えて思い止まらせようとします。

 

しかし、三成の意志は固く、再三の説得にも応じません。

 

そして、さすがの吉継も最後には三成の覚悟に打たれ、勝算が少ないと分かっていながらも友情を重んじて共に挙兵することを決めます。

 

その際には三成に対して、

 

「あなたは普段から態度が横柄で知恵才覚は優れているが勇気がなく決断力も乏しい。あなたの命令をきく大名は少ないので毛利輝元と宇喜多秀家を上に立てるべきだ。」

 

と忠告しています。

 

そして吉継は家康との対決に向け書状を発し諸大名の調整をしたり、家康方の武将を策略を用いて撹乱したりと、その才能を存分に発揮します。

 

関連記事⇒石田三成と大谷吉継の友情の逸話と墓の発掘調査!!

 

関ヶ原の戦い

関ヶ原に出陣した吉継ですが、実はこの時には病気で目が見えなくなり顔も醜く崩れてしまう病気に侵されていたため、白い頭巾を被っての出陣だったと言います。

 

一説には歩くこともままならない状態で輿に乗って采配を振るっていたとも伝わります。

 

その吉継の下に戸田勝成、平塚為広という二人の武将がいました。

 

勝成と為広はどちらも武勇に優れ、諸大名から信頼も厚かったとされる名将で、為広は目の見えない吉継に代わって軍勢の指揮をとります。

 

関ヶ原の合戦では同じ西軍として出陣していた小早川秀秋が裏切り、大谷吉継の部隊に攻めかかってきます。

 

しかし、かねてより秀秋の裏切りを察知していた吉継はしっかりと備えしていて、平塚為広、戸田勝成両将は数100の兵で小早川軍15000を一時は500mも押し返します。

 

これはまさに獅子奮迅の働きで、この勢いに小早川勢はさらに後退していきます。

 

しかし吉継達も予想していなかった第2、第3の裏切りが起こり大谷勢は次第に劣勢に。

 

予想外の裏切りに合い、軍勢を支えきれなくなった戸田勝成、平塚為広の両将はついに敵方に打ち取られ、無念の最期を向かえます。

 

為広が討死の前に討取った敵将の首と一緒に吉継に届けさせた辞世の句があります。

 

「君がため 棄つる 命は 惜しからじ 終に止まらぬ 浮世と思えば」
【あなたのために捨てる命なら惜しくはない どうせ命は永遠ではないのだから】

 

この書状を見た吉継は、

 

「契りあらば 六の巷で 待てしばし 遅れ先立つことは あるとも」
【遅れてしまう事もあるかもしれないが 必ず行くので待っていてくれ】

 

と返しています。

 

このやり取りから、2人の間に友情にも勝る信頼関係があった事が伺えます。

 

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藤堂高虎が建てた墓

その後、吉継は敗戦が濃厚になった事を家臣から聞くと家臣に介錯を命じ自刃。

 

その際に吉継に日頃から恩義を感じていた家臣たちは吉継の恩に報いるため敵陣に切り込んでいったそうです。

 

大谷吉継の首は、介錯を行い最期を見届けた家臣の湯浅五介が関ヶ原に埋めたと言われています。

 

大谷吉継、戸田勝成、平塚為広は他の大名からも一目置かれ、とても良い関係を築いていたようで、諸将の死を聞いた敵方の武将もその死を惜しみ涙を流したと伝わります。

 

その証に、現在関ヶ原にある大谷吉継の墓所は関ヶ原の戦いで敵として戦った、藤堂高虎が建てたものです。

 

関ヶ原の戦いでは敗軍の将となり、命を落とした吉継ですが、友情に殉じた大谷吉継の名は埋もれることなく現代に伝わっています。

 

もしかしたら、関ヶ原の戦いで一番名を上げたのは大谷吉継だったのかもしれません。

 

関連記事⇒大谷吉継の病気とは?

 

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2 Responses to “真田信繁(幸村)に娘を嫁がせた大谷吉継の最期!!”

  1. ヨシアキ より:

    はじめまして。大谷義継ですが、らい病(ハンセン病)だったと言われてますよね。

    全身包帯のイメージが強いですが放映中の「真田丸」を見る限りだと、まだ病には犯されてない様子。いつ頃からそういう兆候が出てたんでしょうかねえ。

    • 三日月 より:

      ヨシアキさん

      コメントありがとうございます。

      吉継が病気になった詳しい時期というのは分かっていません。
      ただ、個人的には比較的若い頃から何らかの病気にはなっていたのではないかと思います。

      イメージ的には僕も吉継は白頭巾のイメージが強いので、ここからどのように吉継の受難が描かれていくかが楽しみです。

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