豪快で派手好きなイメージの戦国武将・伊達政宗。

美的感覚もかなり独特のものだったようで、カラフルな水玉の陣羽織が伝えられたりもしています。

 

そんな政宗が残した五常訓という教えは物事を独自の視点から分析した、現代にも通じる名言です。

今回はその伊達政宗の五常訓を紹介していきたいと思います。

 

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伊達政ってどんな人?

伊達政宗といえば、誰もが名前を聞いたことがある戦国大名ですね。

戦国大名の人気ランキングを作ると10位以内には必ず入るような人物で、『戦国BASARA』『殿といっしょ』等の主人公として選ばれるなど、戦国時代を扱った創作作品では重要な立ち位置としてキャラクターを発揮しています。

 

織田信長豊臣秀吉徳川家康と並んですごいすごいと言われている伊達政宗ですが、実際の歴史上ではどのようなことをして知られるようになったのでしょうか?

 

 

名前 伊達政宗(だてまさむね)
生没年 1567年~1636年
別名 梵天丸(幼名)、独眼竜(あだ名)
官位 従五位下・左京大夫、侍従、越前守(1591年)
従四位下・右近衛権少将、陸奥守(1608年)
正四位下・参議(1615年)
従三位、権中納言(1626年)
贈従二位(死後)

 

独眼竜の由来

伊達政宗は、伊達家16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫の長男として生まれます。

4歳の時に天然痘にかかり生死の境を彷徨った政宗。

どうにか病は完治しましたが、この時の影響で右目を失明してしまいます。

 

しかも失明した右目が醜く飛び出してしまい、内向的な性格だった政宗は右目がコンプレックスになっていました。

 

主君でありながら自分の容姿に悩む政宗。

その政宗を救ったのが政宗より10歳年上の重臣・片倉小十郎景綱です。

 

政宗は幼い頃から仕えていた景綱に命じて、自分の右目をえぐり出させたと言われています。

こうして片目を失った政宗。

これが後に独眼竜と呼ばれる由来です。

 

いくら命令とはいえ主君の目に刃を突き立てるというのはちょっと考えにくいので、おそらくこの話は創作の色合いが強いと思いますが、片倉小十郎景綱とのこの逸話は広く知れ渡っています。

 

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父親が殺害される

政宗の人生で最も過酷だったこと、それは自分の父親を敵対勢力に拉致されて殺されたことだと思います。

18歳で家督を継いで伊達家の当主となった政宗は、手始めに敵対していた畠山義継を降伏させます。

 

しかし降伏した義継が隠居していた輝宗を拉致。

すぐに義継を追い詰めた政宗ですが、義継は輝宗を人質にしているので鉄砲隊も攻撃ができません。

 

「自分もろとも撃て!」と命じる輝宗。

この命に従った伊達家の家臣は一斉に射撃を開始し、輝宗や義継一行が全員亡くなったとされています。

 

政宗は現場にはいなかったとされていますが、書物によっては政宗自身が射撃命令を下したとするものや、伊達軍に包囲された義継が輝宗を道連れにしたとするものもあります。

後で義継の首が届くと政宗は義継の体を切り刻み藤蔓でつなぎあわせて吊るしたといわれています。

 

白装束で秀吉のもとへ

政宗が勢力を拡大する頃になると、豊臣秀吉の支配が近寄ってきます。

天下をほぼ手中に収めていた秀吉は政宗に出陣を要請。

最初は出陣要請を無視していた政宗ですが、秀吉が最後通告を突きつけると、政宗は小十郎と共に秀吉に降伏することを決めます。

 

この時、政宗は死を覚悟して来ているという証を示すために切腹の際に着用する白装束を着て秀吉に面会します。

秀吉は政宗のこの態度にえらく気に入り、政宗の降伏を許しました。

 

 

この後、政宗の詰問に来た前田利家に対しては「降伏に来たのではない、千利休に茶を習いに来たのだ」と言ってさらに秀吉を感服させたと言われています。

こうした痛快な言動・行動の数々は政宗が天下の世を生き抜くための原動力にもなりました。

 

支倉常長をヨーロッパへ派遣する

政宗は秀吉の世を生き抜き、その死後は家康に従って仙台藩を与えられ藩祖となります。

しかし政宗は家督を継いでからずっと天下への野心を諦めていませんでした。

 

政宗はスペインとの通商、または軍事同盟を画策し、家臣の支倉常長に命じてスペインに使節団を派遣します。

この時常長はスペインの皇帝から伊達の勢力を誉められ、またローマ教皇にも謁見を許されたという実績があります。

 

当時、政宗は大坂の陣に参加していましたが、大坂の陣は戦国大名が天下を覆す最後のチャンスでした。

政宗が利用しようとしたのはあの信長も利用したキリスト教の宣教師の力です。

 

しかし常長は条約を結ぶことに失敗し、なおかつ帰国した時は既に日本でキリスト教の禁止令が出されており外国の力によって天下を覆すことはできなくなりました。

この失敗は政宗の野心の終焉を意味していたといわれています。

 

徳川家光に尊敬される

野心家であったとされる政宗ですが、中年を過ぎるとその性格にも変化が見られ、三代将軍・徳川家光に父親と慕われたという逸話が残っています。

 

家光は戦国大名に強い憧れを抱き、戦国を生き抜いた政宗を「親父殿」と呼んで強く慕っていました。

政宗が病になり食事も喉を通らなくなった時には、家光自ら見舞いにも行っています。

 

そして、政宗死去の報せを聞いた家光は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発しました。

幕府が親族以外で喪に服す命令を下すのは異例のことでした。

 

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「ダースベイダー」は政宗をモデルにして生まれたもの

『スターウォーズ』に登場する悪役、ダースベイダー。

印象的なテーマ曲と呼吸音でスター・ウォーズの中でも人気のキャラクターとなっていますよね。

 

実はこのダースベイダーの外観のモデルは伊達政宗す。

“STAR WARS−THE MAGIC OF MYTH−”(MARY HENDERSON /1997)という本の188ページに、ベイダーの鎧と政宗の黒漆五枚胴具足の兜部分が掲載されています。

 

ジョージ・ルーカスはダースベイダーに伊達政宗の甲冑のデザインを取り入れています。

そう考えると、時代を超えて意外なところにまで政宗の影響が及んでいることが分かりますね。

 

伊達政宗の価値観

突然ですが、「仁・義・礼・智・信」という言葉を聞いたことがありますか?

儒教では人が常に守るべき五つの項目としてこの五徳があり、武士道にもこの考えが取り入れられています。

 

  • 仁・・・思いやりや優しさ、人を慈しむ心。
  • 義・・・自分の利益にとらわれず正しい行いをして筋を通す事。
  • 礼・・・礼儀作法や相手に対する敬意。
  • 智・・・知識や経験で積み、正しい判断を下すこと。洞察力。
  • 信・・・人を信頼し、誠実である事。

 

ストレートに解釈するとこのようになり、これらを意識しながら暮らすことが重要ということになるのですが、伊達政宗は少し違った角度からこの五徳を見ています。

 

政宗の名言「五常訓」

この『仁・義・礼・智・信』という五徳、政宗がは自身の経験を踏まえて下記のように表現しています。

 

  • 仁に過ぎれば弱くなる。
  • 義に過ぎれば固くなる。
  • 礼に過ぎれば諂(へつらい)いとなる。
  • 智に過ぎれば嘘をつく。
  • 信に過ぎれば損をする。

 

これは五常訓と呼ばれるものですが、政宗は五徳は大事でも、全てが行き過ぎてしまうと害になると独自の視点から教えてくれています。

 

  • 相手を思いやり、優しくしすぎれば自分が弱くなってしまう。
  • 筋を通そうと正しい行いばかりに囚われては融通がきかなくなり、柔軟な対応ができない。
  • 礼儀正しさが過ぎれば、嫌味となり逆に失礼である。
  • 知識や経験が増え利口になると嘘をつくようになる。
  • 他人を信じすぎれば損をしてしまう。

 

この名言を初めて聞いたとき、私は伊達政宗という人の核心をつく物の見方に感動した覚えがあります。

 

五徳は常に心しておきたい事ですが、それも時と場合によってという事も同時に覚えておかなくてはいけないなと思いました。

確かに戦場にいるのに、仁の心を持って相手のことを思いやっていては、自分の命がいくつあっても足りません。

 

 

そして、筋を通す生き方は大事ですが、自分一人ならまだしも、家族や家臣を持っている大名ともなれば、筋を通してばかりでは周りの人を不幸にしてしまいます。

 

全てはバランスが大事。

戦国の世を生き抜いてきた伊達政宗らしい着眼点だと思います。

 

そして五常訓はこう続きます。

 

気ながく心穏やかにして、よろず倹約を用い金を備うべし倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり

この世に客に来たと思えば 何の苦もなし。

朝夕の食事は、うまからずとも誉めて食うべし。

元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい。

今日行くをおくり、子孫兄弟に良く挨拶して、 娑婆の御暇申すがよし。

 

この文の意味を意訳してみると下記のようになります。

 

気を楽に、心を穏やかにして、多少の不自由があっても倹約を心掛けるように。

この世に客としてきていると思えば不足に思うことはない。

朝食や夕食が美味しくなくても「美味しい」と言って食べること。

元々、お客であれば好き嫌いを言う立場にはないのだから。

そうやって生きて、あの世へ帰るときには家族や子供にちゃんと挨拶をして旅立てばいい。

 

この五常訓は政宗の遺訓とされていますが(諸説あり)、政宗の野心家で豪快なイメージとは異なって、とても優しくおおらかな心を持った武将だったのかなという気もしています。

 

やはり戦国時代を生き抜いた武将の名言には学ぶことが多いですね。

 

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