数々の名言を残している吉田松陰。

その中でも最も有名なのが、松陰の辞世の句と言われるものではないでしょうか?

 

辞世の句とは、死を直前に読む漢詩や和歌とされていますが、吉田松陰は筆まめで死の直前まで多くの手紙を残している事から、この辞世の句と呼ばれるものがいくつかあります。

 

今回は松陰の残した辞世の句と最期の様子を紹介していきたいと思います。

 

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3つの辞世の句

私が考えるに松陰の辞世の句は家族に向けられたもの、塾生や同志に向けられたもの、そして自分自身の気持ちを表したものの3つに分けられると思います。

 

それぞれ有名なものですが、まずは家族(両親)に向けられたものから見ていきましょう。

 

両親へ

1つ目の辞世の句は、永訣の書と呼ばれる、父百合之介、兄梅太郎、叔父玉木文之進に向けて書かれたお別れの手紙の中に記されています。

 

「親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん」

(子が親の事を想う以上に、親が子を想う気持ちは深いもの、私がこのような状況になって両親はどんな思いだろう)

 

死の直前に書かれたものではないので、厳密には辞世とは言えないかもしれませんが、家族への最後の言葉という意味で取り上げました。

 

この時、松陰は伝馬町の獄舎につながれ、自分の最期を覚悟していました。

そのため、この永訣の書には、百合之介や梅太郎、文之進に対して長生きしてほしいという思いと、母や寿、文に対してのメッセージが記されています。

 

そして、

  • 自分が処刑されたら首は江戸に葬り
  • 位牌には『松陰二十一回孟子』と書き
  • 自分が愛用していた硯(すずり)と手紙を魂の依り代として供養してほしい。

と頼んでいます。

 

このように永訣の書は、まさに家族に向けた松陰の遺書と言えるものです。

 

塾生・同志へ

松陰が最後に記した魂の遺書『留魂録』。

 

関連記事⇒吉田松陰が沼崎吉五郎に託した遺書『留魂録』!!

 

その冒頭に記してあるのが一般的には吉田松陰の辞世の句として知られています。

この留魂録は松下村塾の塾生たちに向けて書かれたものなので、この句は塾生に残す辞世の句と言えます。

 

「身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」

(私の体は江戸の地で朽ち果ててしまっても、私の魂だけはこの世で生き続ける)

 

だから、自分の意志を継いで塾生たちも日本のために行動を起こしてほしい。

そういうメッセージが込められています。

 

実際、この辞世の句は多くの塾生の胸に刻まれ、明治維新を成功させる源となりました。

これが松陰が塾生たちに残した2つ目の辞世の句です。

 

松陰の気持ち

最後は死を直前にした松陰の率直な気持ちが表現されている辞世です。

これは漢詩で、評定所で死罪の判決を受けた後に大声で吟じたものだと言われています。

 

「吾、今、国のために死す。死して君親に背かず、悠々たり天地の事。鑑照は明神にあり。」

(私はこれから国のために死ぬ。それでも主君や両親に対して恥ずべきことは何もない。今となっては全ての事を悠々とした気持ちで受け入れている。私の人生は神の御照覧に任せます。)

 

この漢詩は伝馬町の獄中で松陰が叫んだものを囚人が書き記して松下村塾の塾生に伝えています。

 

そういった意味でも、この漢詩が松陰にとっての最後の言葉で、死を前にした素直な気持ちがあらわされているため、辞世の句と呼ぶに最もふさわしいのかもしれません。

 

松陰の最期の様子

伝馬町牢屋敷で2冊の留魂録を書き終えた松陰に、最後の呼び出しの声がかかります。

すると松陰は、「10月27日 覚悟を決めていた死の旅路の呼び出しを聞くことができて嬉しくてならない」と書き残し、判決が言い渡される評定所へと向かいます。

 

この時の松陰は髭や髪が伸びていましたが、眼光は鋭く、近寄りがたいオーラを放っていたと、その場に居合わせた長州藩士が語っています。

 

そして、評定所で役人から『死罪』という判決が言い渡されますが、この時、松陰はとても穏やかな様子だったようです。

ただその後、護送される松陰が評定所の扉を出てから大声で叫んだ言葉が2つあります。

 

1つは留魂録の冒頭でも有名な『身はたとえ 武蔵の野辺にくちぬとも 留めおかまし 大和魂』という辞世の句。

 

そしてもう1つは、先程紹介した松陰の正直な気持ちを表した漢詩です。

 

私はこれから国のために死にます。

主君や両親に対して何も恥ずべきことはありません。

私は世の中の事をのびのびとした気持ちで受け入れています。

私の人生の全てを神にゆだねます。

 

松陰のこの言葉を、幕府の役人や護送の役人たちも厳粛な顔つきで聞いていたようです。

 

伝馬町牢屋敷に戻る

一度、評定所から伝馬町の牢屋敷に戻った松陰は、獄舎の人たちと別れの挨拶をします。

そしてこの時も、離れた獄舎にいる同志達にも届くように、大声で辞世の句を3回吟じます。

 

評定所を離れる時もそうですが、死を前にしたこの松陰の姿と声は、多くの人の心にとても強烈に映ったのではないかと思います。

 

 

最期の時

処刑場に移され、役人から死罪を言い渡されると、松陰は「かしこまりました」と答え、世話になった役人には「長らくお世話になりました」という言葉をかけたとされています。

 

通常、死罪を言い渡された罪人は恐怖から足が立たなくなってしまう事もあるようなのですが、松陰は最後まで堂々とした態度でした。

そして処刑直前に「鼻をかませてください」と頼み、その後静かに刑の執行を受けます。

 

この、死を前にした松陰の姿があまりにも堂々としたものだったので、幕府の役人も皆感動して涙していたと伝わっています。

 

松陰の首を切った(介錯をした)山田浅右衛門は松陰の最後の様子を「松陰は最後まで堂々としていて実に見事だった。その姿には幕府の役人も感激していた。」と語っています。

 

松陰の亡骸

処刑された松陰の遺体の引き渡しの交渉には、門下生であった飯田正伯と尾寺新之丞が奔走します。

伝馬町の役人が松陰の遺体をなかなか渡さないので、飯田らは賄賂(わいろ)を使うなどして、粘り強く役人と交渉していました。

 

そこで出た結論は、現在の荒川区南千住にある回向院というお寺に一度遺体を運んで、そこで飯田たちに引き渡すというもの。

飯田たちは桂小五郎と伊藤利助(博文)にも声をかけ、4人で松陰の遺体を引き取る事になります。

 

しかし、罪人という事もあり、松陰の遺体は裸のまま無造作に樽に入れられており、その扱いは酷いものでした。

この変わり果てた師の姿を見た塾生たちは師の体を水で清め、それぞれの衣服を脱いで着せた後、松陰の遺体を用意しておいた甕に移し、回向院(えこういん)に葬って墓石を建てました。

 

高杉晋作が墓所を改葬

当時の回向院というのは、小塚原の刑場で刑を受けた罪人を供養するために建てられたお寺でした。

「師である吉田松陰は日本国のためを思って行動した志士であり罪人ではない」

 

その思いから、松陰の死から4年後に高杉晋作が伊藤博文らと共に、この回向院から現在の世田谷区若林に墓所を改葬し、今に至っています。

後に墓所の近くに吉田松陰を祭る神社が建立され、萩と世田谷区の2か所に松陰神社が存在することになっています。

 

関連記事⇒吉田松陰が処刑された時の父・百合之助と母・滝の夢!!

 

今回の記事は下記の書籍を参考にさせて頂きました。

 

 



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