薩英戦争の原因と結果を分りやすく解説!賠償金はどうなったのか?

薩摩藩とイギリスが戦った薩英戦争。

日本の藩の一つである薩摩藩と大国イギリスが戦うという異例の戦争は、その後の薩摩藩を変える大きな出来事となりました。

 

この戦争はどういう経緯をたどり、そして薩摩藩をどう変えたのでしょうか?。

 

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生麦事件の賠償交渉がこじれて戦争に

そもそも何故薩摩藩とイギリスが戦争をすることになったのか?

実は薩英戦争は生麦事件がきっかけになって引き起こされた戦争です。

 

生麦事件は島津久光の行列が武蔵国生麦村(現在の横浜市鶴見区)に差し掛かった時、観光で川崎大師に向かう途中だったイギリス人4名が、馬に乗ったまま行列の前に現れたことで起こった事件。

 

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この時代、大名行列が通る時には道をあけ「ははーっ」とひざまずくのが絶対的なルールでした。

しかし外国人はそんなルールを知るはずもありません。

 

行列の前を馬に乗ったまま通過しようとするイギリス人4名を見つけた奈良原喜左衛門はすぐに立ち退くように忠告しますが、1名がすぐ馬の向きを変えることができませんでした。

それに業を煮やした喜左衛門が抜刀して斬りかかり、1名が死亡、2名が重傷という大事件になってしまったのです。

 

このうち死亡したリチャードソンの父が、発生から2か月後に事件を知り、イギリス政府の関係者に問い合わせの手紙を書き、イギリス政府が賠償の交渉に動き始めます。

 

イギリスは駐日代理公使(日本で自国を代表する役職)のニールに、幕府には10万ポンドの賠償金と正式な謝罪を、薩摩藩には2万5千ポンドの賠償金と犯人の引き渡し、そしてイギリスの軍人の立ち会いの下で犯人を処刑するよう要求せよ、と伝えます。

 

しかし幕府がこれに応じた一方で、当事者の薩摩藩は要求を拒否。

これに怒ったイギリスが実力行使に出で、薩英戦争が開戦にします。

 

スイカ割り決死隊も登場…開戦前のごたごた

文久3(1863)年6月28日、薩摩にニール率いる7隻のイギリス艦隊がやってきました。

「賠償の交渉がまとまるまで帰らないぞ!」という意気込みでいたのでしょう、艦隊は8月になっても帰ろうとしません。

それだけ薩摩藩との直接交渉が長引いていたのです。

 

そんな状況の中、薩摩藩の若い藩士約80名が、スイカ売りに化けてイギリスの艦船に乗り込み、陸からの合図とともに艦隊ごと乗っ取るという計画を立てます。

 

この計画には、生麦事件の犯人である喜左衛門と有村俊斎(海江田信義)も参加していましたが、言葉が通じないことや何より怪しすぎることが原因で失敗に終わっています。

 

この翌々日の7月2日、交渉が上手くいかないことに我慢ができなくなったイギリスは、交渉を進展させるカードとするために、薩摩藩の3隻の船を捕らえます。

ところが薩摩藩がこれを攻撃とみなして、城下に設置した大砲をイギリス艦隊に向けて撃ったことで、ついに薩英戦争の火ぶたが切って落とされることになるのです。

 

圧倒的な戦力の差…勝敗・結末はどうなった?

薩摩藩とイギリスの戦力の差は圧倒的なものでした。

薩摩藩は10か所に台場(砲台)を設け、数門の80~150ポンドを含む86門の大砲を設置。

対するイギリス艦隊は薩摩藩の旧式の大砲の4倍遠く砲弾を飛ばすことができる、最新式のアームストロング砲を含む89門の大砲を装備していたのです。

 

最初の5時間の戦闘でイギリスは最新式の大砲で攻撃したにもかかわらず、薩摩藩と同じぐらい大きなダメージを受けます。

 

では何故、装備で勝るイギリスが苦戦してしまったのか?

理由はいくつかあり、まずイギリス艦隊は、旗艦(艦隊の司令官が乗り、艦隊の指揮をとる軍艦)の弾薬庫の前に、幕府から受け取った賠償金が入った箱を積み上げていたために攻撃の開始が遅れ、そのためにユーリアラス号では、艦長と副長ならびに7名の水兵が戦死、6名が負傷してしまったのです。

 

さらにこの日は悪天候で海が荒れていました。

イギリス艦隊は停泊する港をよく知らなかったことも被害を大きくした一因とされています。

 

対する薩摩藩は、イギリスより死傷者は少なかったものの、ほとんどの砲台が壊滅的な被害を受け、城下の約500軒余りが焼かれ、島津斉彬が力を入れた集成館(武器や農具、陶磁器やガラスなど様々なものを作っていたところ)も大きな被害を受けました。

 

そのため、薩英戦争の結果は引き分けということになります。

 

イギリスのすごさを痛感…その後の薩摩藩

この戦いでイギリスのすごさを痛感した薩摩藩は、結局、幕府に立て替えてもらう形で賠償金を支払うことになります。

 

賠償金の額は6万300両という莫大な額。

しかし薩摩はこのお金を借りっぱなしで、幕府には返済していません。

 

そして、それまで推し進めていた攘夷(外国人を日本から追い払うべきという考え)を実現するのは不可能だと悟り、薩摩藩はイギリスと仲良くする道を選び、藩を発展させることに方向転換します。

 

薩英戦争から2年後の慶応元(1865)年、薩摩藩はイギリスに19名の留学生を送ります。

当時の日本はまだ鎖国政策をとっており、外国に渡るなどもってのほかだったので、薩摩藩は「甑島や大島の警備」という名目で、現在のいちき串木野市の羽島浦から船を出港させたのです。

 

この留学生の中には、薩英戦争の時にイギリスが捕らえた3隻の船のうち1隻に乗っていて捕虜となった五代友厚と寺島宗則(松木弘安)もいました。

彼らは帰国後、薩摩藩はもちろん日本の発展に貢献し、その功績は、鹿児島中央駅の前にある銅像「若き薩摩の群像」として現在もたたえられています。

 

薩摩藩が外国との圧倒的な差を痛感した薩英戦争。

それは薩摩藩だけではなく、日本の行く末にも影響する大きな出来事だったのです。

 

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