徳川家定の奇行は病気のせい?性格や篤姫との夫婦仲を解説!

天璋院篤姫の夫としても知られる13代将軍・徳川家定。

「イモ公方(公方=将軍のこと)」とあだ名をつけられるほどお菓子作りが好きな、今で言うところのスイーツ男子でもありました。

 

バリバリと政治を行った将軍というよりは、「奇行の多い変わり者」や「暗愚」というイメージが強い徳川家定ですが、実際はどんな将軍だったのか?

今回は徳川家定の性格や奇行の真実に迫ってみたいと思います。

 

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病弱な家定が将軍になった理由

家定は12代将軍・家慶(いえよし)の4男として生まれました。

家慶にはたくさんの子どもがいましたが、その大半が早くに亡くなり、男の子で生き延びたのは家定のみでした。

 

 

ペリーが来航し「開国シテクダサイ」と幕府に開国を要求した直後に家慶が亡くなったため、13代将軍になりますが、病弱だった家定に政治を行う器量はなかったようです。

 

病弱ゆえに将軍でありながら政治を行えず

将軍になった家定ですが、その直後から体調が悪くなり、国の政治は老中(幕府最高の地位で、将軍を助けて政治を行う役職)の阿部正弘が取り仕切っていました。

そして、阿部が彼が亡くなった後は堀田正睦にバトンタッチすることになるので、家定は将軍としてバリバリ仕事をしていた訳ではありません。

 

というよりも、脳の病気を患っていたともされるため、政治だけでなく人とのコミュニケーションが取れるような状態ではありませんでした。

奇行が多く、大名や外国の使者ともまともに話せない状況なので、実際は阿部正弘や堀田正睦らが家定の承認を取る形で、幕府運営を行っていたというのが本当のところだと思います。

 

 

 

おかゆに指をつっこんだ? 家定の変わり者エピソード

とにかく周囲に跡継ぎの心配をされた家定。

病弱である上に変わり者としても有名で、「キレる」クセがあったので、家臣たちは大変だったと思います。

アメリカの駐日総領事(日本に住んでいるアメリカ国民を保護したり、商売の取引が上手くいくよう働きかけをしたりする人)であるハリスと会った時には、話す前に頭を後ろに反らして、足を踏み鳴らすような動きをしたんだとか。

 

他にも、父・家慶が病気になった時には、看病をするところまでは良かったのですが、家慶に作ったおかゆに指をつっこんで温度を計り、さらに家慶がおかゆを食べるところを、障子の穴から覗いていたというエピソードもあります。

 

変わっているといよりも、こういった子供っぽい行動は、やはり病気の影響が大きかったのではないかという印象を受けます。

 

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篤姫との夫婦仲は良かった?手作りカステラをふるまったスイーツ男子!

ペリーが2度目の来航をして日米和親条約を結んだ後、家定は薩摩藩11代藩主・島津斉彬の養女だった天璋院篤姫と3回目の結婚をします。

 

最初の正室と2番目の正室を相次いで早くに亡くしていた家定。

篤姫との間に子供をもうけることを望んでいたようですが、結局子供はできませんでした。

ただ、子供ができなかったとはいっても、篤姫との夫婦仲は良好だったようです。

 

家定の趣味は料理で、特にお菓子作りが好きだったらしく、豆を煮たり、イモをふかしたり、カボチャを煮たりする度に周りに勧めていたそうです。

そのため、ついたあだ名は「イモ公方」。

 

本格的なお菓子も作っており、篤姫の実家から送られてきた黒砂糖を使って作ったカステラを彼女にふるまったという、仲良し夫婦ならではの素敵なエピソードがあります。

 

壮絶な跡継ぎ争い

こんな感じで暮らしていた家定でしたが、そうはいっても将軍です。

篤姫との間に子どもがいなかったため、次の将軍を誰にするかで跡継ぎ争いが起きます。

 

ただしこの争い、そもそもは家慶が原因だったのです。

彼は元々家定ではなく、水戸藩主だった徳川斉昭の息子である慶喜を次の将軍にしたいと考えており、そのためにわざわざ慶喜を一橋家の養子にしていました。

 

ところがいざ跡継ぎを決める段になった時、彼は「次の将軍を家定ではなく慶喜にしたいんだけど」と言い出せず、そのまま亡くなってしまったのです。

そのせいで慶喜を支持する一派と、家定のいとこである紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ)を支持する一派による、「将軍継嗣問題」と呼ばれる壮絶な跡継ぎ争いが始まります。

 

慶喜を支持していたのは、攘夷論者(日本から外国人を追い出すべきという考えを持っていた人)の越前藩主・松平慶永(よしなが)や、西郷隆盛の主君として知られる薩摩藩主・島津斉彬など。

対して慶福は彦根藩主・井伊直弼などが支持していました。

 

ちなみに家定はどっちを支持していたかというと、父・家慶とは違い、自らのいとこである慶福の方でした。その理由は…

 

「慶喜は余よりイケメンだから」

 

という、とても分かりやすいものだったんだとか。

国の政治とは全く関係ありませんね・・・。

 

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壮絶な跡継ぎ争い…そのあっけない終わり

慶喜派と慶福派がせめぎ合った争いは、ある時にあっけなく終わりを告げます。

慶福派の井伊直弼が大老(老中と同じく、幕府最高の地位)に就任したとたん、慶福を次の将軍に決定したのです。

この直後に家定は、慶福の安全を確保するために慶喜派の大名を処分し、翌日35歳の若さで亡くなりました。

 

慶喜派の苦難はこれだけにとどまらず、直弼によって慶喜派の大名や有力者は次々に処刑や謹慎とされ、徹底的に弾圧されます。

これが「安政の大獄」と呼ばれるものです。

 

しかし慶福改め家茂の死後、次の将軍には慶喜が就任し、最後の将軍として、国の政治の中心を朝廷(皇室のこと)に返す大政奉還を行い、日本は明治維新という大きな変化を迎えます。

 

激動の時代に将軍になったものの、病弱であるがゆえに国の政治を行うことができなかった家定ですが、彼は彼なりの生き方で、歴史にその名を残したのです。

 

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