西郷隆盛に代わって一家の大黒柱となった吉二郎!その最期とは?

西郷隆盛のすぐ下の弟である西郷吉二郎。

島流しにあうなど隆盛が家にいなかった時代には、一家の大黒柱として西郷家を支えた人物です。

 

隆盛が「自分が日本のために働けたのは吉二郎が自分に代わって兄の仕事を果たしてくれたからで、自分の方が年は上だが、実際の兄は吉二郎だ」と語ったという話もあるほど、西郷家にはなくてはならない人物でした。

 

吉二郎は新政府軍と幕府軍が激突した戊辰戦争で命を落とすことになりますが、西郷隆盛の弟としてどのような人生を歩んだのでしょうか?

資料が少ないマニアックな存在ではありますが、今回は吉二郎と彼を取り巻く西郷家の人々についてひも解きます。

 

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兄・隆盛の影響で尊皇派として活動

吉二郎は西郷吉兵衛の次男として生まれました。

吉兵衛と妻・満佐(まさ)との間に生まれた子どもは、隆盛を始めとする四男三女。

吉二郎のすぐ下の弟にあたるのが、後に初代の海軍大臣を務めることになる従道(じゅうどう/つぐみち)です。

 

西郷家の身分は、10段階に分かれている薩摩藩の身分制度の中で、下から2番目である御小姓与(おこしょうぐみ)。

現在の金額で1000万~2000万円の借金も抱えていたため、吉二郎も他の兄弟と一緒に貧しい暮らしをしていました。

 

ただ、身分が低いとは言ってもそこは薩摩の武士。

兄の隆盛から影響を受け、自らも尊皇派(天皇を敬い、国の政治の中心にと考えている人たち)として活動するようになります。

 

隆盛の妻も苦労した西郷家の家庭事情

吉二郎は園という女性と結婚し、美津と勇袈裟(ゆうげさ)という2人の子どもに恵まれました。

しかし当時の西郷家の家計は大変な状況だったのです。

 

兄・隆盛が3番目の妻である糸と結婚した時、西郷家には吉二郎・園・美津・勇袈裟の一家に加え、従道と一番下の弟である小兵衛も同居していました。

しかも隆盛は家にいないことが多かったので、吉二郎が家の大黒柱代わりとして家族を養っていました。

 

兄・隆盛と明暗を分けた戊辰戦争

兄・隆盛と同じく尊皇派として活動していた吉二郎。

そんな中、時代は大きく変化します。

 

徳川幕府15代将軍・慶喜が征夷大将軍の座から降り、政権を朝廷(皇室のこと)に返す大政奉還が行われたのです。

「これで天皇中心の政治が始まる!」と思いきや、事態はそう簡単にはいきません。

 

政権と返上したとはいえ、鎌倉幕府から700年間も政治を行ってきたのは武士。

朝廷がすぐに政治を行えるノウハウを持っていないだろうと考えた慶喜は、大政奉還後も政治の中心に居座ろうとします。

 

この状況を打開するために薩摩藩と長州藩が取った行動が「王政復古の大号令」(究極奥義)。

これは天皇を中心として新しく役職を作った上で、有力な藩がみんなで話し合って政治を行うということでした。

 

こんなことをされたら、当然幕府側の藩は面白くありません。

この出来事をきっかけに京の伏見で薩摩藩と長州藩が中心の新政府軍と、会津藩や新選組などが参加する幕府軍が戦う鳥羽・伏見の戦いが勃発。

戊辰戦争が始まります。

 

この戦いが始まる直前、隆盛は新政府軍と幕府軍が衝突すると聞き、非常に喜んだといわれています。

しかしその一方で、吉二郎には不幸が待っていたのです。

 

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吉二郎、長岡での戦いでの最期

鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕府軍は、最高司令官である慶喜が大坂城から江戸に逃げてしまったため、兵士たちは「やってられない」とやる気を失ってしまいます。

そんな幕府軍にとどめを刺すため、東征大総督府下参謀という何とも難しい名前の役職に任命された隆盛は、薩摩藩の兵を率いて江戸に向かったのです。

 

江戸に向かった隆盛は、江戸城を総攻撃せよとの命令を受けますが、直前で幕府側の勝海舟と話し合い、総攻撃の中止を決断。江戸城は無血開城されることになりました。

 

ところがまだ戊辰戦争は終わりません。

新政府軍は残った会津藩(現在の福島県会津若松市を中心とした地域)を討とうとし、会津藩はそれを防ぐために近くの藩と奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)という同盟を結んで対抗します。

この同盟に、それまで中立を貫いていた長岡藩(現在の新潟県長岡市を中心とした地域)も参加したことから、吉二郎は監軍(軍隊を監視する役割)の一員として長岡城での戦いに参加するのです。

 

長岡城での戦いは激しさを極め、2回の落城後、新政府軍と奥羽列藩同盟軍は現在の新潟県の中央を流れる五十嵐川を挟んで戦います。

 

しかし、この長岡での戦いの中で吉二郎は負傷。

12日後に36歳の若さで最期を迎えます。

 

 

吉二郎の死後…西南戦争での西郷家

吉二郎が亡くなった後も、園・美津・隆準(たかのり)と名を改めた勇袈裟は西郷家に住み続けました。

西南戦争が終わりに近づき、新政府軍が鹿児島に上陸すると、他の住民と同じように西郷家の人々も避難を開始。

 

当時西郷家に住んでいた11人で、現在の鹿児島市西別府町に持っていた農業用の小屋に住むことにしたのです。

 

小屋は狭く食料もわずかな量だけ・・・。

そんな中でも水くみや燃料集めなどさまざまな問題を協力し合って対処しながら、西郷家の人々は西南戦争が終わるまでこの小屋で過ごしました。

 

兄・隆盛の背中を追い、尊皇派として活動した後、隆盛も参加した戊辰戦争で命を落とした吉二郎。

 

そして西南戦争で苦労しながらも留守を守った西郷家の人々。

彼らは常に家族のきずなで結ばれていたのです。

 

 

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