大山綱良の名でも知られる薩摩藩士・大山格之助。

剣の名手として知られた彼は、西郷隆盛と非常に仲が悪かったにも関わらず、西南戦争の際は行動を共にすることになります。

 

ではどうしてそうなったのか?

今回は大山格之助の波乱万丈の人生をたどります。

 

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キャリアは茶坊主から始まった

格之助は樺山善助の次男として生まれ、大山家の養子となって跡を継ぐことになります。

薩摩藩主である島津家に、訪ねてきたお客さんの身の世話をしたり、お茶を出したりする茶坊主として仕え、やがて隆盛や大久保利通らが、藩内にいる尊皇攘夷派(天皇を国の政治の中心と位置づけ、外国人を日本から追い払うべきという考えている一派)の下級武士で結成したグループ「精忠組」の一員となるのです。

 

久光に剣の腕を買われて…

格之助は藩内で剣の名手として知られていました。

 

彼が修めた薬丸自顕流は薩摩藩に伝わる流派で一撃必殺。

すなわち刀を一度振り下ろしただけで相手を死に至らしめるという、想像しただけでおっかない剣法です。

 

そんな名人・格之助を、藩主が放っておく訳がありません。

ただし格之助の腕を見込んだのは、当時の藩主・忠義ではなく、彼の父親で実際に藩の政治を行い、「国父」と呼ばれていた久光(斉彬の母親違いの弟)の方でした。

 

彼は格之助に「鎮撫使(ちんぶし)」として、他の藩士たちと共に、京都の旅館・寺田屋に向かうよう命じます。

この命令が、同じ薩摩藩士同士で殺し合う、後に寺田屋騒動と呼ばれる壮絶な一大事へとつながるのです。

 

 

そもそも寺田屋騒動はなぜ起きた?

騒動のきっかけとなったのは、久光が1000人の藩士を引き連れて京に上ったことでした。

これは亡くなった兄・斉彬の遺志によるもので、生前14代将軍に一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)を推していた斉彬は、14代将軍に徳川家茂が就いたことに意見しようと京に上ろうとしていたため、久光がそれを引き継いだのです。

 

この時久光は、朝廷(皇室のこと)と幕府が協力して、日本から外国人を追い払うと同時に幕府の立て直しを進める、公武合体を実現させようとしていました。

ところが久光が京に上るのと同時期に、京の旅館・寺田屋に精忠組の過激派が他の藩の藩士と協力して、攘夷を実現させるため、政府の役所や有力者を襲おうと集まっていたのです。

 

これを知った久光は格之助をはじめとする剣の名手を集めて、過激派の計画を止めようとします。

しかし事態は思わぬ方向に動きます。

 

「上意である!」の一言から…壮絶な殺し合い

1862年4月23日の深夜、格之助ら鎮撫使9人は寺田屋を訪れ、過激派の藩士たちに計画を思いとどまるよう説得します。

しかし、過激派の藩士たちは説得を聞き入れようとしません。

 

そこに鎮撫使の中から「上意である!」という声が上がり、彼らは刀を抜き、いっせいに過激派に襲いかかります。

上意というのは久光の命令であるということ。

実は久光は、過激派が説得に応じない場合は切り捨ててもよい、とも命じていたのです。

 

かくして、同じ薩摩藩士同士の殺し合いが始まりました。

 

その戦いはとにもかくにも壮絶なもので、過激派の一人だった有馬新七は、自らの刀を折った鎮撫使の道島五郎兵衛を壁に押しつけ、同じ過激派の橋口吉之丞に「おいごと刺せ!(おれごと刺せ!)」と叫び、そのまま道島ごと刺されるという悲劇的な最期を遂げています。

こうして過激派のうち6人がその場で死亡、生き残った2人も後に切腹を命じられ、鎮撫使も1人が亡くなったのです。

 

この寺田屋騒動によって、薩摩藩の過激派がほとんどいなくなったことで、藩は公武合体に意見がまとまっていきます。

 

 

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明治維新後…隆盛と和解し支援に回る

寺田屋騒動の後、薩摩藩とイギリスが戦った薩英戦争や、新政府と旧幕府が戦った戊辰戦争で活躍した格之助は、明治維新を経て、初代の鹿児島県令に就任します。

県令というのは、今で言うところの県知事のことです。

 

同じ精忠組の一員でありながら、隆盛とはしょっちゅう仲たがいしていた格之助。

しかし、隆盛が征韓論(日本と国同士の交流に関する交渉をしない朝鮮について、新政府の中で起きた議論)について意見が対立し、新政府から離れて鹿児島に帰ると仲良くなり、隆盛が設立した私学校を支援するようになります。

 

格之助がこのような立場をとったのは、明治に入って武士が持っていた権利が奪われるのを恐れたからであり、それは西南戦争が始まっても変わることはありませんでした。

 

西南戦争が起こると、格之助はなんと新政府のお金を隆盛に援助します。

その額15万円。

明治初期のお金の価値を現代の価値に換算するのは難しいのですが、今の15万円とは比べ物にならない額である事は間違いありません。

 

新政府のお金を勝手に持ち出し、しかもよりにもよって新政府と対立している隆盛のために使ったのですから、当然許されるわけがなく、罪を問われた格之助は長崎で首をはねられました。

 

寺田屋騒動では同じ薩摩藩士を切るという悲劇を経験し、西南戦争では長年仲が悪かった隆盛を支援した格之助。その人生は、己の信じた道を突き進んだがゆえの波乱に満ちたものでした。

 

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