【有能or無能】島津斉興が斉彬よりも久光に跡を継がせたいと思った理由とは?

島津斉彬と久光の父親である薩摩藩10代藩主の島津斉興(なりおき)。

藩主になるまでに色々あり、藩主になってからも色々あった人でした(笑)。

 

ただ、歴史的にはマイナーな存在で、あくまでも「島津斉彬と久光のパパ」としての知名度しかありません。

 

では、島津斉興(なりおき)はいったいどんな道を歩んで藩主となった人物なのでしょうか?

今回は島津斉興の生涯について詳しくみていきましょう。

 

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おじいちゃん(重豪)とお父さん(斉宣)の対立を経て藩主に

斉興のお父さんで9代藩主の斉宣(なりのぶ)は、存在的にはおそらくかな〜り地味な人です。

ただ、この斉宣と斉興のおじいちゃんである重豪(しげひで)の激しいケンカがきっかけで、斉興は藩主になるのです。

 

気難しそうな顔の斉興さん。き、機嫌が悪いんですかね・・・?

 

おじいちゃんの重豪はとても学問や文化に理解があった人で、藩校の造士館(ぞうしかん)や演武館を作って武士に教育を受けさせたり、農業や動植物に関する今で言うところの百科事典を編集させたりしています。

現在の鹿児島で最も大きなアーケード街・天文館の語源となった天文台を作ったのも重豪でした。

 

また、自らもオランダ語や中国語を勉強して、長崎の鳴滝塾で診察や教育を行っていたドイツ人医師・シーボルトから直接教えを受けるほどの勉強家でした。

 

ただ、自らの代でいろんな事業を手がけるのに藩のお金を使い過ぎた上に、江戸の藩の屋敷の火事や桜島の大噴火、藩内の風水害が重なったため、藩自体が借金まみれになってしまいます。

 

その借金の額は500万両!

現在のお金で約2500億円というとんでもない額だったので、当然のことながら藩内で大問題になります。

 

これにブチ切れたのが、斉興のお父さんである斉宣です。

斉宣は重豪とは正反対で、「亀鶴問答集」を作って質実剛健(飾り気がなく、真面目で強くたくましいこと)・質素倹約(ぜいたくをしないこと)をモットーとしており、樺山主税(かばやまちから)と秩父太郎を家老(藩の家臣の中で最も高い地位で、藩主を助けて藩の政治を行っていた者)に起用し、少しずつ藩の借金を減らそうとしていました。

 

そんな斉宣のことですから、自らの好きなことにお金を使う重豪は悩みの種となっていたのです。

しかも重豪は隠居して斉宣が藩主になってからも、相変わらず藩の政策に口を出してお金を使っていたものですからたまりません。

 

こいつ、どうしてくれよう・・・。

 

父親をこいつ呼ばわりするのは勿論いけませんが、内心、これに近い気持ちだったと思います(笑)。

 

斉宣の隠居

というわけで、斉宣は藩の改革を始めました。

その内容は思い切ったもので、中には幕府が各藩に義務づけている参勤交代を延長するというものもありました。

 

基本的に参勤交代は、江戸と藩を1年ごとに行き来するという決まり。

それを延長するということは、参勤交代にかかる費用が削減できるという訳です。

 

そして遂に斉宣は重豪にあるお願いをします。

「お父さん、やりたいことにお金を使うのはやめてもらえませんか。」

ああ、言っちゃった・・・。

 

好きなことを止められた重豪はブチ切れ。

斉宣と共に改革に取り組んでいた、家老の樺山と秩父を始めとする改革チームの面々に切腹・島流し・寺入りを命じ、あげくの果てに斉宣を隠居させて斉興を次の藩主にしたのです。

 

これが近思録崩れという騒動。

改革チームが中国の朱子学という学問について書かれた「近思録」というものを愛読していたことから、この名がつきました。

 

おじいちゃん、ひどい・・・。

何もそこまでやらなくても・・。

 

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藩主になったものの…女性で失敗した斉興

こうして藩主になった斉興は、重豪が抜擢した調所広郷(ずしょひろさと)と共に、今度こそ藩の借金を減らす努力をし、調所が思い切った手を使ったこともあって、貯金をすることもできました。

やっと肩の荷が下りた斉興は、次の藩主について考え始めます。

 

候補は2人。正室(正式な妻)の周子との間に生まれた斉彬と、側室(身分が高い人の愛人)のお由羅との間に生まれた久光です。

 

斉興が後を継がせたかったのは久光の方でした。

というのも、斉彬はおじいちゃんの重豪に似て、蘭学者(オランダの学問に詳しい人)に学んだり、オランダ語を勉強したりと、外国の学問に理解があったからです。

 

また藩を借金まみれにするわけにはいかない!

おじいちゃんが作った借金がトラウマになっていた斉興は、本格的に久光を次の藩主にしようとします。

 

ところが斉彬を次の藩主にしようとしていた者たちが反発。

かくして、お由羅騒動の幕が上がったのです。

 

初めのうちは斉彬派が有利でしたが、やがてお由羅が斉彬と斉彬の2人の子どもに呪いをかけたという噂が広まり、それをきっかけに斉彬派がお由羅と久光派の暗殺を計画します。

 

これを知った斉興はブチ切れ。

計画に参加した者たちに切腹や島流しなどを命じたのですが、これだけの大きな騒動が藩の中だけで収まるわけがなく、とうとう幕府に知られてしまったのです。

 

斉興は責任を取らされ、皮肉にもお父さんの斉宣と同じく隠居を言い渡され、代わって斉彬が藩主になりました。

こうして斉興の世は終わりを告げたのです。

 

斉彬を次の藩主にはしたがらなかったものの、実は外国の砲術(大砲や鉄砲の技術を訓練したり、火薬についての知識などを勉強すること)を取り入れようとしたり、理化学の研究にも前向きだった斉興。

 

おじいちゃんのトラウマさえなければ、もっと長く藩主を続けられたのかもしれません。

 

 

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