西郷隆盛の使用人・永田熊吉の知られざる逸話と活躍!

西郷隆盛は何人も従僕(使用人)を雇っていました。

その中で今回取り上げるのが、永田熊吉という人物です。

 

永田熊吉はとてもマニアックな人物で、インターネットで検索しても彼の人となりが分かる資料はほとんど出てきません。

しかし、彼には知る人ぞ知る有名なエピソードがあります。

 

その逸話も含めて、今回は永田熊吉がどういった人物だったのかを詳しくみていきましょう。

 

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西南戦争で隆盛の息子・菊次郎を助ける

永田熊吉の最大の功績。

それは西郷隆盛の息子・菊次郎を西南戦争から救い出したことです。

 

西南戦争では、西郷軍に隆盛の息子・菊次郎が参加していました。

菊次郎は隆盛が奄美大島に島流しにされていた頃に結婚した愛加那との息子。

隆盛の妻・糸が引き取って育てており、西南戦争に参加した時はまだ17歳でした。

 

菊次郎は西南戦争が始まってすぐ、西郷軍が熊本城を攻撃するのと並行して行っていた肥後国高瀬(現在の熊本県玉名市)での戦いで、右足に銃弾を受け、ひざから下を切断しなければならなくなります。

戦場でのことです。手術はさぞかし痛かったことでしょう・・・。

 

動けなくなった菊次郎は、日向国長井村(現在の宮崎県東臼杵郡)で新政府軍に降伏するのですが、彼を背負ってともに薩摩に帰還したのが、他ならぬ熊吉だったのです。

 

当時、隆盛の屋敷は新政府軍との戦いで西郷軍の要塞として使われて燃えてしまったため、隆盛の家族は現在の鹿児島市西別府町にあった農業用の小屋に住んでいました。

 

この小屋で、菊次郎はたんかに乗ったまま痛みで苦しみます。

小屋の中であるにもかかわらずたんかに乗せられていたのは、熊吉がいなくても何かあった時には女子供だけで運べるから。

それほど当時の情勢は緊迫したものでした。

 

その後菊次郎の足は、隆盛の弟・吉二郎(戊辰戦争で戦死)の娘・美津のしゅうと(義理の父)で、島津家のかかりつけ医だった足立梅渓が改めて手術を行いました。

熊吉の手助けによって生還した菊次郎は、西南戦争が終結してからしばらくして外務省に入り、アメリカや台湾などで勤務し、やがて京都市長になります。

 

戦場から菊次郎を背負って運び出すという熊吉の勇敢な行いがなければ、彼もここまでの地位に就くことはできなかった訳です。

こうして、熊吉は召し使いの立場でありながら、西郷家を支えた人物として歴史に名を残すことになります。

 

隆盛の最後に立ち会わなかった使用人たち

何人もいた隆盛の使用人ですが、隆盛が城山で切腹した時、実は誰一人としてその場に立ち会っていません。

そのため、薩摩にいた西郷家の人々は隆盛の最期がどのようなものだったのかを知ることがありませんでした。

 

このことは菊次郎が負傷した高瀬の戦いで亡くなった、隆盛の末の弟・小兵衛の妻・まつが後に証言しています。

当然、熊吉も隆盛の最期には立ち会っていません。

 

では、隆盛亡き後の熊吉はどういう人生を歩んだのでしょうか?

 

隆盛の従僕から従道の庭師へ

西南戦争で主人の隆盛を失った熊吉。

彼はその後、隆盛の弟である従道に仕えることになります。

 

話は隆盛が亡くなる3年前。

隆盛の弟・従道が、隆盛を静養させるために屋敷を作ろうと、現在の東京都目黒区青葉台にある土地を買いました。

なんとも兄思いの優しい弟ですね。

 

その土地の広さは実に約2坪。東京ドームが約1万4000坪なので、屋敷だけではなくとても広い庭も作れるほどです。

そのため、隆盛が何頭も飼っていた猟犬も自由に遊ばせられます。

 

しかし隆盛が西南戦争で亡くなったため、従道の最初の目的が果たされることはありませんでした。

やむなく従道は、買った土地に自らの別荘を建てて住むことにしました。

 

隆盛が亡くなった3年後、従道はこの土地に日本初といわれている木造2階建ての地震に強い洋館を建てます。

そして屋敷内に立派な庭園を造るのですが、隆盛が亡くなってから9年後。

この庭園を整備するために薩摩から呼び寄せられたのが熊吉でした。

 

隆盛の召し使いから、従道の庭師に転職したという訳です。

 

現代に残る従道の屋敷跡

熊吉が従道から整備を任された庭園の一部は、現在では西郷山公園という公園になり住民の憩いの場となっています(東京都目黒区にあります)。

 

名前の由来は、従道の屋敷の周辺に住んでいた人々がこの辺りを「西郷山」と呼んでいたからで、敷地内には鹿児島から寄贈された、大きな桜島の溶岩が設置されています。

 

この他にも、斜面に人工の滝が作られていたり、展望台やカフェも整備されており、夜景がきれいに見えることでも知られているこの公園。

 

冬のよく晴れた日には富士山も望めます。

きっと、従道や熊吉も屋敷から富士山を眺めていたのかもしれません。

 

また、従道が熊吉を呼び寄せた当時、既に建てていた洋館は愛知県犬山市にある博物館明治村に移築され、現在も国の重要文化財として保存されています。

 

まとめ

隆盛・菊次郎・従道と、常に西郷家のために尽くした熊吉。

西南戦争で負傷した菊次郎を激しい戦いの中から薩摩の西郷家まで背負って運び、隆盛の死後は従道の屋敷で庭園の整備に取り組むという、正反対の日々を送りました。

 

 

たとえ記録が少なくても、西郷家にとって、熊吉がなくてはならない存在だったことは間違いありません。

本当にドラマティックな人生ですね。

 

 

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