明治維新以降、日本は富国強兵のスローガンを元に国土拡大を狙っていたことから、韓国、中国、そしてロシアとも利害関係が生まれていました。

これまでは貿易制限をしていたアジアの極東国が世界市場に参加したことで世はあらゆる国が軍事的衝突を繰り返すようになるのです。

 

その中でも、日露戦争は第0次世界大戦と言われるような巨大な規模になりました。

この戦争に勝利をもたらしたのが、東郷平八郎です。

 

この勝利によって伝説の人物として神格化された東郷は、本当に神のような人物だったのでしょうか?

 

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東郷平八郎を簡単に解説!

 

 

名前 東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
生没年 1848年~1934年
出身 薩摩国鹿児島郡加治屋町(薩長派閥の生まれ)
所属 大日本帝国海軍
性格 意外と目立たない、寡黙、軽率
特徴 イケメン(顔も性格も)
尊敬する人 西郷隆盛

 

東郷平八郎は1848年、薩摩藩士の家に生まれました。

若い頃から海軍として薩英戦争や箱根戦争に従軍。

容姿に優れていたことから、料亭に行くと芸者よりも人気が高かったと言われています。

 

東郷は非常におしゃべりな性格でしたが、大久保利通におしゃべりを注意されたり、イギリスに留学した際に「お前みたいな遅れた国の人間は中国に行ってしまえ」とからかわれ、寡黙になっていきます。

 

そして、東郷は西郷隆盛の事をとても尊敬していたとされ、イギリス留学中に西南戦争が起こったことを知り、西郷の死に落胆したと伝わります。

 

日清戦争では威海衛海戦や台湾の澎湖諸島海戦にて活躍。

日清戦争後は佐世保や舞鶴に赴任していましたが、本人の希望と山本権兵衛の推薦で明治天皇自ら同意し中央へと戻ります。

 

当時、日本は朝鮮半島の支配権をめぐってロシアと対立しており、日本はアメリカ・イギリス、ロシアはフランス・ドイツと同盟を結んでいました。

伊藤博文ら元老を筆頭に、日本国内では巨大な戦力を持つロシアとは戦争をしたくないという意見が主流でしたが、小村寿太郎らの開戦派の意見が勝り、ついに日本はロシアとの開戦に踏み切ります。

 

東郷は戦艦「三笠」に乗船し、旅順攻略や黄海海戦を指揮。

日本はロシアの拠点である奉天を攻略するために攻撃を仕掛けますが、ロシアも簡単に日本軍に敗れる訳はありません。

そしてロシアは、当時最強と呼ばれていた「バルチック艦隊(バルト艦隊)」の出撃準備をします。

 

バルチック艦隊は7か月に渡る航海の末に日本海に到達し、両海軍は日本海上で開戦。

 

この時、東郷自ら「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との肉声を発信し、日露戦争は見事勝利を収めることができたのです。

 

日露戦争後の東郷は日露戦争の功績から大勲位菊花賞を受賞し伯爵となります。

晩年は東郷の活躍を利用して軍部が軍政に干渉するようになりますが、東郷は政治に対してはそこまで関心はなかったようです。

 

1934年、咽頭癌などの合併症にて亡くなります。死の前日に侯爵となり、その死は世界中に衝撃を与えました。

 

バルチック艦隊を破った東郷ターンとは?

東郷平八郎最大の功績、それは日露戦争・日本海開戦での兵の寡多を覆して大勝利を収めたことです。

当時ロシアのバルチック艦隊といえばロシアの覇権を象徴する世界最強最新鋭の艦隊でした。

 

しかし度重なる日本との敗戦と長時間にわたる渡航によって船足が緩み、さらに内部では船員と将校の関係が崩壊しており、事実上機能していない艦隊もありました。

対して日本艦隊は整った指揮系統にて間断なく斉射を行い個々の威力の低さを補い、また技術面でも通信技術の発達や教育の普及率の高さから商工から一般兵まで質が底上げされていたため、既に戦闘前からある程度の下地ができていたのです。

 

さて、肝心の東郷ターンとは何でしょうか?

東郷率いる日本艦隊はロシアのバルチック艦隊とすれ違うように右側を通り過ぎるかと思いきや突如左折しバルチック艦隊の敵の先頭を圧迫します。

バルチック艦隊は主砲が側面にあるため何とか横転しようとしますが、日本艦隊は速度に勝るために続いてバルチック艦隊の前方に出現、そして敵の前方から一斉に砲撃を仕掛けました。

 

これによってバルチック艦隊は主力艦隊を一気に失い、そのほとんどが海に沈んでしまいます。

一方の日本は僅かな損失はあったものの、実質的には軽微なものに過ぎず、ほとんど無傷と言っていいほどでした。

 

東郷ターンは一般的にはT字戦法と言われますが、これは古代から海戦では船が横向きになった際に最も射撃効率がいいことから言われることで、攻者が横向き、守者が縦向きになることで守者がなすすべもなく敗れてしまう構図を言います。

日本海海戦の前の黄海海戦でも日本軍はこのT字戦法を実践しようとして失敗していまが、東郷ターンはこれを成功させたと言われています。

 

しかし実際はT字になる前に砲撃が完了しているというのが最も正確であることから、当時の報道が今一つ正確な情報を得ていないうちから勝利の興奮で誇張して東郷の功績をややオーバーに語ったとみられています。

いずれにしても東郷の戦略は正解でロシア帝国はこの大敗北をきっかけに国力が著しく低下、遠からず滅亡してしまうのです。

 

 

東郷の性格と人柄

東郷は若い頃からイケメンとして知られ、軍人らしく大酒を飲み数日間かけて料亭で過ごしたというエピソードもありますが、年を取るごとに倹約家になったと言われています。

こうしたエピソードから金遣いが荒いと噂されたことがありましたが、実際は当時の海軍将校の給料は東郷が遊んだくらいでなくなるほど少なくなく、彼自身が料理をすることも普通でした。

 

東郷は薩摩藩士の出身らしく武士を非常に重んじていました。

特徴的なエピソードとして、幕末に徳川慶喜に仕えて幕府の近代化を進めようとした小栗上野介を尊敬していました。

 

小栗上野介は戊辰戦争の際に恭順を選んだ慶喜と違い徹底抗戦を主張し後に謎の理由にて斬首された幕臣です。

明治以降日本が用いた横須賀製鉄所は小栗が幕末に開いたことがその最初となっておりますが、日露戦争で使われた艦隊はこの横須賀製作所で作られたものでした。

 

日露戦争から帰還後、東郷は小栗の子孫を呼び寄せて「今我々がこうして生きていられるのは小栗上野介が近代化に目を向けてくれていたからである」と感謝を表し、賊の汚名を着せられていた小栗上野介の名誉回復に努めています。

 

東郷は生前から既に神格化され始めていました。

日露戦争後、日本は陸軍と海軍が主導権を争うようになり、陸軍は明治天皇に殉死した乃木希典を神格化しており、海軍はそれに対抗するために東郷の生前から東郷神社を建てようとしていました。

 

東郷はこうした動きを大変嫌がっていたので拒否していましたが結局東郷神社は建立され、現在も東京都に残っています。

東郷の存在は海軍にとっても内閣にとっても非常に厄介な存在となり、歴代の内閣総理大臣は東郷の意見が反映されてしまうことを非常に煙たく思っていました。

 

東郷は軍隊拡大という意見を持っており、これがのちに政党政治から軍人政治に変わる背景となっていくのです。

東郷自身がこれを望んだかは別として、人の影響力というのは恐ろしいものです。

 



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