松平信康の切腹の真実!築山殿(瀬名)と内通して家康を裏切ったというのは本当か?

徳川家康には合計11人の息子がいましたが、彼らが一堂に会したことはありません。

家康は一般的に子供に対して厳しい父親だと言われていますが、確かに上の息子達に対しては少し辛く当たっているような一面が見られます。

特に有名なのが長男・松平信康の切腹事件です。

 

信康は優れた器量の持ち主だったはずですが、武田と内通したとする理由で切腹を命じられています。

しかし信康が武田と内通するようなメリットがあるようには思えません。

 

信康と家康、その間には一体何が起こったのでしょうか?

今回は松平信康の切腹の真相について迫ってみたいと思います。

 

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松平信康の概要

 

名前 松平信康(まつだいらのぶやす)

別名 竹千代、岡崎三郎

生没年 1559年~1579年

父母 父 徳川家康  母 築山殿

居城 三河岡崎城

家臣 石川数正・平岩親吉・高力清長・天野康景・本多重次等

性格 豪胆、弟思い、プライドが高い、反抗的

妻 徳姫(織田信長の娘)

 

信康はどんな人物だった?武将としての評価や評判

信康は1559年、駿府にて生まれました。

当時の徳川家康はまだ松平信康と名乗っており、今川義元の属臣状態でした。

 

信康や母の築山殿らは人質として駿府に留め置かれていましたが、桶狭間の戦いで義元が戦死すると家康が独立を画策。

今川に攻撃を仕掛けると、人質交換で家康の元に戻ります。

 

そして家康は尾張の織田信長と同盟を結ぶ証として、信康と信長の娘・徳姫の婚儀を行います。

当時彼らは9歳でしたが、共に岡崎城に住み暮らします。

 

信康は満10歳で岡崎城を譲られ岡崎城主となり、後見人には石川数正をはじめ徳川家のブレーンたる人材が揃います。

 

信康は武将として非常に有能で、1573年に初陣を飾り続く1575年の長篠の戦いでも一軍の大将として活躍します。

信康は戦においては非常に有能であったとされており、数々の史料ではそれを褒めたたえる内容がよく見られます。

 

例えば武田勝頼を相手に戦をしたときは、自ら殿を買って出て一歩も引かず家康でさえ唸らせたと言われています。

その一方で三河武士特有の武辺物の特徴をよく持っており、鷹狩りや乗馬をこよなく愛し話すといえばそれに関連する武勇自慢ばかりという典型的な武闘派だったようです。

 

しかし一方で家康との仲が今一つよくないという話もよく聞かれます。

家康は子どもに対して薄情な男であり、特に若い頃は「子は無事に育てば後は知らん」という考えを持っていたとされています。

 

信康も家康との仲は決して良くなく、家康の意見に反対することも少なくなかったようです。

 

信康の切腹の理由(通説)

1579年、家康は突如信康がいる岡崎城を訪れ信康が岡崎城を退去することとなります。

そして堀江城、二俣城と移転した上で家康の命により自害します。享年21歳。

 

この突然すぎる切腹の理由はよくわかっていませんが、通説では母の築山殿が武田勝頼と通じたことが原因だとされています。

別の遠因としては、信康と不仲になった徳姫が信長に対し12か条の書状を送ろうとしていたことが挙げられます。

 

これを送ったのが酒井忠次で、信長が書状を開くと、信康との不仲や築山殿が武田に通じている等が書かれていました。

信長はこれを事実かと問うと、忠次は全て事実だと認めるしかありませんでした。

こうして信長は信康の切腹を家康に命じます。

 

もちろん嫡子を切腹することに反対する人は多く、信長との同盟破棄を進言する家臣が現れます。

平岩親吉などは「切腹させるなら自分が首を信長に差し出す」と言いどうにか切腹を思いとどまらせようとしていますが、結局家康は信長の命令には逆らえず、まず築山殿を護送中に暗殺させ、次に信康を切腹させます。

 

信康の首は信長に送られたのちに岡崎の若宮八幡宮に埋葬されます。

これ以後、家康は苦悩を背負いながらも信長との同盟を継続させ、のちには武田を滅ぼすこととなるのです。

 

その他の説

ところが、この通説はあまりにも強引な話でもあります。

築山殿は当時いかに立場が低かったとはいえ武田と通じることにメリットがあるとは思えません。

 

築山殿は元は今川分家の瀬名氏の生まれですが、家康が今川を裏切って織田に付き、それによって父が切腹させられています。

それを恨んで唐人(中国人)の医者と密通し武田を操ろうとし、信康も今川家の血を継ぐ人間で無縁ではないからこそこれに加担したとされています。

 

他には信康は日頃から粗暴で民を理不尽な理由で殺害する一面があったとされていますが、そういう話は追放されたり裏切りによって消された人物にはつきものなので鵜呑みにするのは賢いとはいえません。

 

信康と徳姫は上述の通り仲が悪くなってしまったとされていますが、その原因は2人の間に男子が生まれなかったことにあるとされています。

当時信康と徳姫の間には2人の娘がいましたが、息子はいませんでした。

 

そこで築山殿が自分の息のかかった女性を信康の側室として送り込んだのです。

これによって徳姫と信康との間に溝が生じてしまったという説もあります。

 

ただ、2人はまだようやく20歳になったばかりでとても若く、側室がいることは当時としては決して珍しいことではないので徳姫がへそを曲げる理由としては明らかにおかしいです。

 

まして、それで信康が築山殿の肩を持つ必要もないはずです。

 

考察

近年有力な説としては、家康と信康の対立構造が表面化した結果だとする説があります。

家康は子育てに関して過度の放任主義だったので信康は幼少期から父を嫌っていました。

また信康自身も城主であり当時の徳川家の領地の4分の1は信康のものでした。

 

当時の徳川家臣団は、家康率いる武勇誇る浜松派と、信康を擁する後方支援や内政を得意とする岡崎派に分かれていたとされています。

岡崎派の中には武勇でなる信康を担ぎ上げて家康を追い出そうとする動きをする豪族や家臣もいたとされており、信康自身も家康の政治のやり方に不満を持っていたとされています。

こうして信康の周囲には反家康、クーデターという雰囲気に包まれていました。

 

一方、信康と徳姫は詳細は不明ですがどうも仲が悪くなってしまったことは事実のようです。

1579年には信長が岡崎に鷹狩りと称して自ら来訪しており、信康・徳姫夫婦を見舞っています。

 

信長は信康を非常に気に入っており、自ら馬を降りて面会したと言われているので、通説のように信康の器量を恐れたというのは考えにくいでしょう。

他家のお家騒動に首を突っ込むのはさすがの信長も守備範囲外です。

 

しかし突然酒井忠次が徳姫が書いた書状を送ってくると、信長も仕方なくこれに対応するしかありませんでした。

そこで信長の返答として最も正確なものは「家康の好きにせよ」でした。

 

そして家康は築山殿を殺し、信康に切腹を命じます。

 

実は前年に家康は三河武士団に対して「今後は信康と通じてはいけない」という命令を出しています。

つまりこの時点で信康と岡崎武士団の間に何かしらの密議が行われていたような可能性が伺えます。

 

築山殿を殺す必要があったかどうかはわかりませんが、家康自身も築山殿との仲がよかったわけではなく10年以上も一緒に住んでいません。

それに問題を起こしたことで「信康一派」と思われる岡崎派の家臣が前後して次々と追放や処罰をされています。

 

築山殿の処分もこれに関連して信長に対する対外的なポーズと家康個人の夫婦仲の決着がいいタイミングで重なったのでしょうか?

 

ちなみに織田信長はこれ以前に武田に通じようとした叔母であるおつやの方を自害に追い込んでいますが、こっちは信康事件よりもはるかに深刻で信長の五男・勝長が人質にされており信長の怒りは相当なものでした。

 

経過はどうあれ、信康切腹によって徳川家中の派閥争いは治まったようで事件後に家臣らは家康に「家康を二度と裏切らない」という誓紙を書かされています。

ここから、当時の徳川家の地位があまり安定したものではなかったことがわかります。

 

後年、家康は信康を殺したことを非常に悔いていたと言われています。

六男・忠輝は幼少期から粗暴な振る舞いが目立っていたため家康に嫌われていましたが、もう1つの理由としては信康に似ていたからだと言われています。

 

ところで残された信康の娘はそれぞれ小笠原秀政、本多忠政に嫁いでおり、その家系は幕末まで続いています。

 

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