沖田総司について解説!菊一文字の所持と新選組最強説は本当?

幕末、幕府と京都の治安を守るために活躍した新選組。

隊士1人1人が数奇な運命をたどることから、新選組は幕末のヒーローとして現在まで語り継がれています。

 

沖田総司はその新選組の一番隊組長ですが、沖田は局長の近藤勇よりも人気のある存在です。

その理由は近藤や土方以上に剣術に長けていたこと、美少年だったこと、そして肺結核にて若くして亡くなったことでしょう。

悲劇の貴公子という立ち位置がドラマ性を引き立たせているのです。

 

では、沖田が新選組の中で実際にはどのように貢献したのでしょうか?

そして数々の逸話についての真偽はいかがなものでしょうか?

今回はそんな悲劇の貴公子・沖田総司について見ていきましょう。

 

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沖田総司を簡単に解説

 

 

名前 沖田総司(おきたそうじ)

別名 宗次郎

生没年 1842年?~1868年

出身地 陸奥国白河藩?(江戸生まれ)

所属道場 試衛館

流派 天然理心流、北辰一刀流

役職 新選組一番隊組長、副長助勤

性格 気さくで開放的

 

沖田総司はその出自がはっきりとしません。

白河藩に沖田という藩士がいたという記録があるため、おそらくはそこの出身と思われますが、彼自身は江戸生まれで、近藤周助が開く天然理心流の試衛館に通っていました。

 

そこで近藤勇や土方歳三といった自分よりも年上の同志と出会うことになりますが、総司は幼少期の時点で剣術の腕はかなりのものだったようで、12歳で白河藩の剣術指南と決闘をして勝利したとされています。

近藤らと出稽古にも参加しており、既に外にも認められる剣士となっていました。

 

将軍・徳川家茂が京都へ上洛するという話が持ち上がると、攘夷派の清川八郎が幕府に浪士による家茂護衛隊を組織しようと進言。

試衛館の門弟達はこの浪士隊と呼ばれる親衛隊に志願します。

近藤勇や土方歳三はもちろん、沖田総司や永倉新八も行動を共にしています。

 

しかしいざ京都に着くと、清河は本当の目的は将軍の護衛ではなく攘夷であり、江戸に戻って攘夷を訴えるという意見を出します。

近藤らはこれに反対し京都に残留。

こうして浪士組は二分され、京都に残った壬生浪士らは京都所司代の松平容保(会津藩主)の指揮下に組み込まれることとなり、京都の治安維持を行うこととなります。

 

これが新選組の始まりです。

 

沖田は新選組の中では一番隊組長・副長助勤という立場となり、土方に次ぐ事実上の参謀役となっていました。

(新選組は隊長ではなく組長と呼ばれます。)

 

一番隊は常に重要な役割を担っており、沖田は初代局長だった芹沢鴨の暗殺等を行っています。

そして池田屋事件では、近藤隊に所属して一番に池田屋に切り込んだとされています。

 

しかしこの頃には既に肺結核を患っていたとされ、途中で吐血。

最後まで戦い抜くことができず、戦線を離脱してしまいます。

 

翌年、総長の山南敬助が新選組を脱走する事件がおきると、追手として指名され、山南を新選組の屯所まで連れ戻しています。

新選組には隊を抜けることは死罪という絶対のルールがありました。

これは山南も例外ではなく、すぐに切腹が言い渡されます。

 

沖田は山南とは仲が良かったとされていますが、切腹する山南の介錯をしています。

 

その後は持病が重くなったため重要な戦には参加せずに療養に専念。

鳥羽伏見で幕府軍が敗れた後に甲陽鎮撫隊として近藤らとともに参戦しますが、体調不良で途中離脱しています。

 

この頃の沖田はすでに戦える体ではありませんでした。

そのまま江戸の千駄ヶ谷に隠棲し、そこで最期を迎えます。

沖田が亡くなったのは、近藤が斬首されてから2か月後のことでした。

 

享年は24歳とも26歳ともいわれています。

 

沖田総司は本当に美少年だった?

沖田総司のイメージと言えば幸薄の美少年。

愛刀は「菊一文字則宗」という名刀で、無類の強さを誇ったというものです。

剣の腕に関しては間違いなく新選組の中でもトップクラスの実力を持っていたようですが、容姿に関しては微妙なところ。

 

確実に沖田のものだと言われている写真が残ってないので、想像の中で膨らんだキャラクターという部分が大きいと思います。

沖田家の証言によると、総司は背の低い色白の男だったと言われており、それ以外の容貌に関する特別な言及はなかったとされています。

 

ヒラメのような顔をしていたという話も有名ですが、これも確実な根拠がある話ではないようです。

沖田総司の顔については、全く分かっていないというのが正しいですね。

 

剣術の達人だったって本当?

沖田総司は剣術の腕に関しては、最強との呼び声もあるほど優秀なものでした。

明治になって生き残っていた二番隊組長・永倉新八によると「土方や井上源三郎、山南敬助、藤堂平助が竹刀では子ども扱いされていた。近藤ですらも沖田には勝てないだろう。」と沖田のことを振り返っており、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と評していました。

 

少なくとも沖田は竹刀での対決であれば、近藤や土方よりも強かったと思われます。

 

しかし新選組には沖田よりも強い剣士まだがいたとされています。

それが服部武雄で、小柄だった沖田と違い大柄で剣術、武術、槍術、柔術を使いこなすバケモノで二刀流の使い手でしたが、最期は伊藤甲子太郎らと共に御陵衛士を結成し抗争にて原田左之助に討ち取られました。

 

新選組はこうしたバケモノ級の達人が集まった最強の部隊だったようですが、活躍できた期間は決して長くありません。

 

ちなみに沖田が菊一文字を使ったというのは真っ赤な嘘であるとされています。

菊一文字は当時大名クラスでも簡単には手に入らないような高級品であったので、藩士くずれの沖田が持っているとなると、とんでもないことに発展する可能性もあるため、常用などもってのほかでしょう。

 

実際に使っていたのは「加州清光」と呼ばれる刀で、池田屋事件の際にはこれを使っていたとされています。

しかし池田屋事件でボロボロになったせいで修理に出したものの修復不可能となったともいわれています。

 

新選組は決して経済が豊かな組織ではなかったはずなので、総司が刀のブランドにこだわる余裕はなかったのかもしれません。

そういえば、局長の近藤勇が使っていた刀も虎徹の偽物だったようです。

 

関連記事→新撰組で一番強かったのは!?最強に名を連ねる隊士達!!

 

沖田総司の性格と肺結核

沖田の性格ですが、沖田の弟子が後年語った内容によると稽古は大変厳しく、何かあればすぐ怒るような人物だったようです。

長州派の岡田以蔵とも比較されるように、天皇や将軍に特別な思いを持っている訳ではなかったったようです。

攘夷やら開国やらというのは沖田にとってはさほど重要なことではなく、要するに剣を振るえる機会が与えられたことに喜びを感じていたタイプの人間なのでしょう。

 

その代わり沖田は局長の近藤を大変慕っており、死の間際に近藤が会いに来たときは涙を流していました。

近藤が死んだ後も沖田にはその死が知らされずに近藤がまた会いに来ることをずっと待ち望んでいました。

 

肺結核に関しては、池田屋事件の時点で既に発症していたとする説とその後の禁門の変を経て徐々に重態となり鳥羽伏見までには動けなくなったとする説があります。

沖田が呼吸器系の病気を発症していたのは事実ではあるようですが、池田屋事件において喀血したとするのはやや後世の創作が入っているようです。

 

しかし永倉新八によれば池田屋事件の際に沖田は気分が悪くて卒倒したという話が記載されています。

これが肺結核によるものかどうかは定かではありませんが、少なくともこの時点ではまだ普通に行動できる状態であったとされており、これから2年後くらいに悪化したとするのが最も自然なようです。

 

沖田総司の家族と子孫について

総司は家族と共に死を迎えることはできず、非常に寂しい晩年を過ごしました。

残念ながら、沖田総司の直系の子孫はいません。

 

史実でも人並みに恋愛経験はあるようである女性から結婚を申し込まれていますが、タイプではなかったのか「まだ修行中の身ですから」と断っています。

 

沖田総司にとって最も親密な家族は姉のミツです。

総司よりも12歳ほど年上で井上林太郎という藩士と結婚しています。

 

林太郎も試衛館の門弟で浪士隊に志願していましたが、近藤と相談した結果林太郎は清河八郎と共に江戸に戻ったので新選組には参加せず、新徴組に参加し組頭となり、庄内藩の非正規雇用となります。

ミツはその後晩年の総司を見舞ったのちに夫と共に庄内藩へ疎開、そして明治になって林太郎が亡くなると長男・芳次郎に従います。

 

芳次郎は宮城県塩竃にて魚介類の売買を行う事業主となりますが、のちに事業に失敗します。

芳次郎がなくなるとミツは末子の卓吉に従って満州に行き、そこで亡くなります。

 

沖田の墓所

江戸にて亡くなった沖田の墓は東京都の六本木ヒルズに程近い専称寺にあります。

ここは代々沖田家の墓があり、総司の他にも芳次郎の墓も戦後になってここに移築されました。

 

総司の墓は非常に小さく、かつて一部の参拝客に墓石を削って持ち帰るというようなマナーの悪い人が大勢いたため一時は参拝を禁止するような話にまで発展していました。

こうした理由と土地関係の理由で普段は敷地内に入ることは禁止されています。

 

年に一度、総司忌が専称寺のご好意で開かれることもあるようですが、コスプレや過激な行動は禁止されているため、もし参拝したい方がいたら、きちんとマナーよく周囲の迷惑にならないようにしましょう。

 

参考URL:http://tomonokai.bakufu.org/main/souji.html

 

専称寺

東京都港区元麻布3-1-37

(地下鉄六本木駅下車・徒歩8分)

 


 

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